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琉球弧の歴史と喜界島(15)、政治権力の基盤について補論

 古琉球の政治権力の基盤についての補論
 
 喜界島と琉球弧の歴史について、識者の見解を紹介してきたが、それらについて学ぶ中で、琉球のグスク時代から三山統一時代の政治的な有力者、権力者の出現とその政治的な基盤について、安里進氏の研究に興味をもつところがあった。このさい補論的に紹介しておきたい。

 海外交易と政治権力
 古琉球の政治権力の基盤をめぐって、主に海外交易との関連で説明されてきた。例えば尚円は海外交易を司る官職就任(御物城御鎖側官)に求める説がある。三山時代の中山王察度が英祖王統に代わって政権を継承し得たのは、浦添が牧港という良港を控え交易による経済力があったこと。三山を統一した尚巴志も、馬天港という港での交易で富を蓄え、15世紀の英雄・阿麻和利も京・鎌倉などとの交易を通して財力を蓄積したという見解などである。
 これについて、安里進氏は『考古学からみた琉球史』(上、下)で、次のようにのべている。
 <海外交易による富が政治権力の基盤になったことは、琉球各地の城塞的グスクから出土する大量の13,4世紀の輸入陶磁器や、琉球王国の朝貢貿易を中心とする海外交易からまちがいないところではあるが、それとともに政治権力の基礎の一つとして農業生産があげられなければならない。
 
 ここでグスク時代の沖縄の農業について、安里氏の著作から、見ておきたい。
 <農業は、グスク時代琉球列島の生産基盤です。グスク時代の開始とともに、集落のほとんどが琉球石灰岩台地上に立地するようになります。この台地上のムギ・アワ畑作を主体に、低地では水稲作を行い、また牛も飼育するという複合経営が展開します。…
 ムギ作を主体にした、複合経営・集約農業・冬作システム(注・冬季を中心に栽培する)というグスク時代の農業は、日本本土のような水田開発を押し進めて生産量を増大させるシステムに比べると、生産力は低いですが、台風・干ばつによる壊滅的な危険を回避して収穫を安定させることができます。こうした琉球列島の風土にあった安定的な農業生産に支えられて、グスク時代には、沖縄島中・南部の琉球石灰岩地帯や琉球石灰岩の島々を中心に人口が急激に増大していくのです(安里進・土肥直美著『沖縄人はどこから来たか 琉球=沖縄人の起源と成立』、安里「琉球・沖縄史をはかるモノサシ」)。>
 沖縄の農業生産の先進形態は、さらに13、4世紀の石灰岩台地縁辺地帯での<水稲作+麦作>複合経営から、15、6世紀には中城湾岸のジャーガル低地帯における<水稲二期作>として展開してきた、という(『考古学からみた琉球史』下)。
                  023[1]
                   中城城跡
 <世界の前近代政治権力と同様に古琉球の政治権力もの基礎にも農業生産があったことは、察度王や尚巴志が,彼らのもつ金塊や名剣を日本商船が積載してきた鉄と交易し、これを農器にして農民に分配し人望を得たという『中山世鑑』や『中山世譜』記載の伝承からもうかがい知ることができる。この伝承には、海外交易の富が直ちに政治権力に転化するのではなく、まずは鉄製農具を普及させ農業生産を発展させることによって人民の信望を獲得し、政治権力をもつにいたるのだという考えがある。
 そして実際、農業生産は三山時代から第一尚氏の政治権力の基礎となっていた。三山時代(14世紀)の中山・山南・山北の各王党は、それぞれ浦添・糸満・今帰仁という石灰岩台地縁辺地帯で発生した。また、三山を統一した思紹・尚巴志以後の15世紀の政治的有力者――尚巴志(佐敷)、護佐丸(中城)、阿麻和利(勝連)、尚円(西原・内間)――は総て」中城湾岸のジャーガル低地帯をその領地としていた。
 政治的有力者の発生地が、14世紀の石灰岩台地縁辺地帯から15世紀には中城湾岸のジャーガル低地帯に移っていった理由は、海外交易からは説明できない。海外交易は。14世紀には西海岸が適地であったものが、15世紀には東海岸が有利になったとは考えられない。14世紀後半以後の中国との朝貢貿易や東南アジア諸国との交易の発展とともに、これらの地域との交易船の往来に便利な西海岸の港が有利になってくるからである。> 

 なぜ第一尚氏は中山政権を奪うことができたか。安里進氏は『グスク・共同体・、村―沖縄歴史考古学序説』で、次のような見解を示している。
 <第一尚氏の中山の登場は、中山の権力が宜野湾を含む浦添勢力から佐敷勢力へ移ったことを意味しているが、その背景には農業生産が発展しつつある佐敷地方と、グスク時代以来の農業生産を続ける浦添地方の経済力の差があった。
グスク時代の遺跡分布をみると、第一尚氏の本貫地である佐敷は遺跡つまり集落分布の希薄地帯だということがわかる。>

 <グスク時代の開始期に石灰岩台地を中心に集落が激増したのと同じように、15,6世紀には海岸低地・谷底低地地帯で集落が急増していったのである。第一尚氏は、こうした集落=人口急増、したがってその背後にある農業生産力の発展を背景に急速に力を蓄えたにちがいない。この佐敷の発展の秘密は、水稲二期作だったと考えられる。…
 二期作は、…佐敷のような石灰岩台地がすくない海岸低地・谷底低地などの従来の水稲単作地帯を中心に展開したと考えられるからである。…
 15世紀の政治権力は、水稲二期作が普及し農業生産力が飛躍的に高まり、集落が急増したと考えられる非石灰岩台地地帯の中城湾岸から発生している。
 たとえば佐敷の第一尚氏、…勝連の阿麻和利と中城の護佐丸、…尚円もその支配地域は西原の内間であった。そのなかでも護佐丸は、築城したばかりの座喜味グスクを放棄してわざわざ中城グスクにその拠点を移している。>
 
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