レキオ島唄アッチャー

琉球弧の歴史と喜界島(12)、南島路

 南島路を利用した交易者

 14世紀代に沖縄島で起きた変化には、ちょうどこのころから頻繁に利用されることになる中国と日本を結び交易路「南島路」(「肥後高瀬~薩摩~琉球~福建」が大きな役割を果した。その新たな参入者として九州を中心とする海商や倭寇的勢力が考えられるという。吉成直樹氏は次のように指摘する。
 <14世紀の南北朝時代には、肥後の高瀬津は南朝方の豪族である菊池氏の支配下にあり、肥後高瀬~薩摩~琉球~福建の交通路には南朝系の勢力が深く関与していた可能性があることである。懐良親王が日本国王として冊封される以前の1369年に、洪武帝は倭寇の鎮圧が可能と考え懐良親王にその禁圧を強く求めている。…
 
 一方では「日本国王良懐」に倭寇の禁圧を要求し、他方では倭寇を琉球に封じ込めるという、両面の政策をとっていたと考えられる。いずれにしろ、懐良親王への遣使を務めたのも楊載であり、琉球を招諭した時の遣使も楊載なのである。…
沖縄島における在地社会の内的な発展を軽視することはできないが、南北朝の動乱と中国の元末の混乱を背景に南島路を利用していた交易者の問題や、沖縄諸島をも含む広範囲にわたって活動をし、中国南部の沿岸地域でも活動していた倭寇勢力を抜きに、14世紀代の沖縄島の社会変化、さらには「三山時代」の形成の問題を考えることはできない。(吉成直樹、高梨修、池田榮史著『琉球史を問い直すーー古琉球時代論』)>
                     東シナ海の交易航路と黒潮の海流
谷川健一編『日琉交易の解明』から

 沖縄への北からの渡来については、民俗学者の仲松弥秀氏も次のような見解をのべている。
 <仲松弥秀はグスク=聖域論を展開する中で、沖縄において豪族化した人物のほとんどは本土から海を渡り、島々を経て渡来した者たちで、商業貿易への関心と才能を持っていた人物であったと述べる。そして、こうした渡来者の中で良港を控え、海上はるかに展望の利く場所に拠った者が次第に優位に立っていったとし、今帰仁、座喜味、勝連、中城、大里、佐敷、南山、首里、浦添をあげる。ただ、仲松は渡来者の数は少なく、ごく近親の者を連れてきたくらいであり、地域住民からの信頼を得ることによって勢力を増し、自己目的の貿易掌握に近づくことができたと述べる(仲松、1990、100~101)、吉成直樹著『琉球の成立―移住と交易の歴史』の(注67)から>
 
 城久(ぐすく)遺跡群に興味があって読みだしたが、この遺跡の内容を見ると、それが琉球弧の全体にもかかわるものであり、琉球の歴史にも影響を及ぼしたことがうかがわれる。実際に、琉球のグスク時代や三山時代などにどのような影響を与えたのかは、論者によってさまざまな見方がある。
 沖縄各地に残されている伝承には、アマミキヨ伝説、為朝伝説、南走平家伝説にみられるように、大和からの渡来をうかがわせる伝承や倭寇が根拠地としたなどの伝承が数多くある。沖縄の歴史形成に、外的な力や渡来人が強い影響を与えたことは間違いない。 
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コメント

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2016-11-25 Fri 15:29 | | [ 編集 ]
コメントへの回答ありがとう。
メールでも書きましたが、連絡先教えていただければありがたいです。
よろしく。
2016-11-26 Sat 22:15 | URL | 伊波 常憲 [ 編集 ]
ご連絡 ありがとう!v-7
2016-12-02 Fri 15:16 | URL | 伊波 常憲 [ 編集 ]
> >  「:奥間鍛冶屋の由来とその系譜」の拙文をお読みいただきありがとうございます。
>       レキオ島唄アッチャー管理人
2016-12-03 Sat 10:42 | URL | レキオアキアキ [ 編集 ]

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