レキオ島唄アッチャー

琉球弧の歴史と喜界島(その10)、農業社会

 グスク時代と農業社会
 グスク時代の開始のキッカケをつくった日本からの渡来人として、安里進氏は「商人、陶工、鍛冶職人、そして彼らを統率する有力者」などをあげた。しかし、そこには「彼らは農民でもないのにグスク時代が農業社会になるのはなぜか」という疑問が残る。また、彼らがどこから来たのか、なぜ琉球列島に住み始めたのかという問題もある。
 これらの問題を解明する見通しをあたえる遺跡として、安里氏は2002~9年に発掘調査された喜界島の城久遺跡群をあげる。すでに城久遺跡群については紹介した。ただ、琉球のグスク時代の農業とこの遺跡との関係についての記述はなかった。この問題で安里氏は次のような推論をしているので要約して紹介する。
 
 城久遺跡群は、大宰府の出先機関というより、大宰府につながる日本人集団の拠点で、南島物産の交易に従事する一方では、遺跡の炊飯用具(土師器の甕)には南島的な要素もあると指摘されているので、城久遺跡群には外来者の生活をサポートする喜界島在来集団もいたと考えられる。
 <おそらく、喜界島では9~12世紀にかけて、九州系渡来集団と島民の混血集団が形成されていったと思われます。喜界島は、琉球石灰岩台地という琉球列島特有の地形・土壌の島ですが、このような風土の喜界島で、グスク時代的な農業システムも成立したのではないかと安里は推定します。

 農業は、グスク時代琉球列島の生産基盤です。グスク時代の開始とともに、集落のほとんどが琉球石灰岩台地上に立地するようになります。この台地上のムギ・アワ畑作を主体に、低地では水稲作を行い、また牛も飼育するという複合経営が展開します。…
ムギ作を主体にした、複合経営・集約農業・冬作システム(冬季を中心に栽培する)というグスク時代の農業は、日本本土のような水田開発を押し進めて生産量を増大させるシステムに比べると、生産力は低いですが、台風・干ばつによる壊滅的な危険を回避して収穫を安定させることができます。こうした琉球列島の風土にあった安定的な農業生産に支えられて、グスク時代には、沖縄島中・南部の琉球石灰岩地帯や琉球石灰岩の島々を中心に人口が急激に増大していくのです(安里「琉球・沖縄史をはかるモノサシ」)>。
 近世奄美の人口密度は、喜界島が最も高く、琉球石灰岩台地でのムギ・アワ畑作を主体にした集約的土地利用が高かったことが背景にあるという。
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            沖縄の稲作の発祥の地とされる南城市の受水走水(うきんじゅはいんじゅ)
  
 <つまり琉球石灰岩の喜界島で、グスク時代人のグスク時代的な農業システム、海外交易などのグスク文化の原型がつくられ、この島で増大した人口が、琉球列島の琉球石灰岩の島々を中心に拡散していったのではないかと考えられます。そして、奄美・沖縄の貝塚人や先島先史人と混血しながら文化的に融合していくことで、土肥が指摘するような貝塚人の特徴を残しながらも中世日本人の特徴をもつグスク時代人や、グスク文化の地域性(多様性)が成立したのではないかと安里は想定しています。「安里進・土肥直美著『沖縄人はどこから来たのか』(改訂版)」>
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