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琉球弧の歴史と喜界島(その7)、奄美の歴史から

 奄美の歴史から
 これまで喜界島の城久(ぐすく)遺跡群が南方交易の拠点であり、琉球弧の島々にも様々な影響を与えてきたことを見てきた。ここで、改めて古代から中世にかけて奄美諸島の歴史を簡略にみておきたい。
 奄美群島は、早くから日本に知られていたようで、7世紀に『日本書紀』には「海見嶋」、「阿麻弥人」として登場。『続日本紀』には「菴美」、「奄美」とあり、奄美群島のことだと考えられるそうだ。

 <733年(天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込まれ、奄美群島の各島々にこの牌が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無い。また、遣唐使に奄美語の通訳を置くことも記されている。997年(長徳3年)に大宰府管内へ「奄美島」の者が武装して乱入、放火や掠奪をしたという(『小右記』)。翌年、大宰府からの追捕命令が貴駕島に発せられている(『日本紀略』)。この貴駕島は現在の喜界島と考えられ、城久遺跡(喜界島)が発見されたことにより、ここが命令を受領した大宰府の出先機関と推定されている(「ウィキペディア」の「奄美群島の歴史」から)。>

                  東シナ海の交易航路と黒潮の海流
              
            東シナ海の交易航路と黒潮の海流(谷川健一編『日琉交易の黎明』から)


 大宰府管内襲撃事件というのは、997年、大宰府は「南蛮(奄美人)」が大宰府管内の薩摩、肥前、肥後、筑前、壱岐、対馬を襲い、300人以上が略奪された事件である。
 <奄美島人(南蛮)の大宰府管内への襲撃事件が繰り返し起きている頃に喜界島の変質が起きていることは明らかである。さらに、注目すべきことは997年の大宰府管内襲撃事件を含めて、断続的に続いた奄美島人の襲撃事件の対象につねに含まれているのが大隅あるいは薩摩だということである。(吉成直樹著『琉球の成立―移住と交易の歴史』)>

 なぜ、奄美人が海を渡って九州まで襲撃したのか。
 <これらの事実が示しているのは、ヤコウガイをはじめとする南方物産の交易に、南九州を中心とする有力者が強く関与しようとした結果、奄美島人側の反発を招き、大宰府管内への襲撃事件が引き起こされたのではないかということである。(同書)>
 興味深いのは、大宰府が「貴駕島」に南蛮の追捕を命じいていることだ。「貴駕島」は、喜界島の可能性が高い。
 同じ奄美群島のなかで、喜界島に「奄美人」追補を命じたことは、喜界島は他の奄美諸島とは異なる立場にあることを示している。大宰府の管轄下にあったようだ。

 奄美群島のふたつの世界
 当時、奄美群島は二分されて認識されていたらしい。鈴木靖民氏は次のように指摘している。
 「10世紀最末、11世紀初において奄美諸島が一括できる政治的、社会的状況にはなく、古代国家、九州諸国の人たちから喜界島とそれ以外とに二分されて認識されている。喜界島の大宰府ないし古代国家側に立つ位置付け、特性に注目しなければならない。つまり奄美大島と喜界島との並存ないし対抗が認められるのである。(『日本古代の周縁史』)」
 同じ奄美諸島の中で、古代国家側に立つ喜界島と、奄美大島は対抗する立場にあったという。それぞれ異なる役割を担っていたという。
 <奄美諸島の古代、中世成立期において、喜界島と奄美大島は日本古代国家の「南島」政策ともかかわって二つの中心地であり、それぞれ異なる役割を担わされたと思われる。(同書)>
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