レキオ島唄アッチャー

琉球弧の歴史と喜界島(その6)、南島と鉄器

 南島と鉄器の輸入
 喜界島の城久(ぐすく)遺跡で見逃せないのは、鍛治炉が多数発見されていることである。鉄器が生産され、それが沖縄にも運ばれたとみられる。
 谷川健一氏は、次のように述べている。
 <「毎日新聞」2007年12月28日夕刊は「喜界島にある11世紀後半~12世紀ごろの大規模集落跡「城久遺跡群大ウフ遺跡」で鉄器をつくる鍛治炉の跡が20基以上、発見された」と報じている。「各鍛治炉跡は直系15~20センチで、いずれもすり鉢状の穴の形をしていた。周辺からは大量の鉄滓(鉄くず)も確認され、砂鉄や鉄製品を溶かしては、新たに鉄器を生産していたらしい。炉に空気を送るための土製のふいごもあった」と述べている。

 琉球社会の農業が飛躍的に発展したのも、また豪族たちが武器として購入し領地の拡大につとめたのも13,14世紀頃のことであり、それには鉄器が決定的な役割を果した。その鉄器を生産する炉のあとが、喜界島で発見されたことはきわめて重要である。城久遺跡で製作された鉄器は沖縄本島にまで運ばれたにちがいない。…
 坊津(鹿児島県)の泊やそのとなりの秋目などは鍛治職人の集中して居住していたところで、坊泊の真中を鍛治屋川が流れ、その上流には鈩迫(たたらさこ)の地名も見える。鈩迫はタタラ吹きをした谷間である。そこで使用した泊の砂鉄で、泊の鍛治屋によって鉄の製品が作られた。鍛治屋川は鍛治の作業に使う水を供給した川である。秋目や坊泊の鍛治技術は、喜界島の城久遺跡に伝えられたであろう。そこから更に奄美の島々や琉球の島々にもたらされたことが推測される。(谷川健一編『日琉交易の黎明――ヤマトからの衝撃』)>
                   056.jpg
                     昔の鍛冶屋を描いた絵(奥間鍛冶屋)
 琉球王国の形成に影響か
 鉄器の流通は、琉球諸島でも社会の一大変革をもたらした。
 「日経電子版 南島史が塗り替わる 12世紀製鉄炉跡の衝撃」は次のようにのべている。
 <永山教諭(ラ・サール学園、永山修一教諭)は11世紀後半から12世紀にかけて島外から得た大量の貴重な遺物が出土していることなどから「喜界島で生産した鉄を、奄美諸島や沖縄諸島に流通させることで、対価としての南島産品を獲得し、それを九州以北へ売ることで利益を得ていた勢力があった」ことに着目。「その影響は琉球王国形成の問題にかかわってくるのだろう」と話す。

 本土では稲作と鉄器の流入によって縄文から弥生に時代が大きく転換したように、鉄器は人々の暮らしを一変させる。村上教授(愛媛大東アジア古代鉄文化研究センター長の村上恭通教授)は「王国が成立する以前の沖縄でも鉄と米は重要な必要物資だったろう」と指摘。「本土では考えられないほど鍛冶炉が多く、製鉄まで行う集中生産をしており、喜界島にとって鉄は沖縄に対する重要な戦略物資になっていたのではないか」と推測する。鉄器を安定的に手に入れる手段を確保した勢力が琉球王国の成立に大きな影響を与えたことは想像に難くない。
 国学院大学の鈴木靖民名誉教授(古代史)は「喜界島は人の移動を含め交易など物流の拠点となっていたと推測される。南西諸島をめぐる古代から中世の歴史的展開の中で重要な役割を果たしていたことは間違いないだろう」と見ている。(「日経電子版 南島史が塗り替わる 12世紀製鉄炉跡の衝撃」本田寛成)>
 
 鉄器は、鉄製農具の使用が琉球の農業生産の一大変革をもたらし、有力豪族が争ったグスク時代に武器としても重用されたように、琉球の社会に大きなインパクトを与えた。中山王となった察度や琉球を統一した尚巴志が王になる前に、大和から手に入れた鉄器を農民に分け与え、信望を集めた伝承があることにも示されている。
 喜界島のことを知る前は、鉄器は九州で生産されたものが持ち込まれていたのか、と思っていた。だが、喜界島で11,12世紀にこれほど鉄器が作られていたとすれば、琉球弧に広く交易で流通したものも、喜界島の鉄器だったのだろうか。
スポンサーサイト

琉球弧の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |
<<ミノカズさん、happybirthday | ホーム | 横浜のCSファイナル進出、嶺井捕手ヒーローに>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |