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琉球弧の歴史と喜界島(その5)、南方物産の交易拠点

 南方物産の交易拠点に
 喜界島の城久(ぐすく)遺跡群が交易拠点だったとすれば、どのような背景のもとに整備されたのだろうか、もう少し見てみたい。
高梨修氏(奄美市立奄美博物館学芸員)は、次のようにのべている。
 <城久遺跡群には、東シナ海周辺諸国の事情によく通じた人びとが往来していた様子が窺われるのである。…
 その背景には、ヤコウガイをはじめとする南方物産交易(威信財交易)の巨大経済的権益があると考えられる。そうした経済的権益を獲得するために、最北の亜熱帯地域(=国家境界領域)に営まれた拠点的施設が城久遺跡群とひとまず考えておきたい。それは、琉球弧を舞台として継続的に営まれてきた南海産大型貝類の長い交易史をふまえ、古代国家・中世国家の展開過程で発生してくる南方物産(=威信財)の大量需要に応じた交易拠点整備と考えてよいかもしれない。(『日琉交易の黎明――ヤマトからの衝撃』谷川健一編、「城久遺跡群とキガイガシマ」)>

  ヤコウガイは種子島・屋久島より南の海域でしか生息しない。「奈良時代から鎌倉時代にかけて工芸品の装飾技法として知られる螺鈿(らでん)の材料として多く用いられた。正倉院宝物などにも見られるが、平安時代には貴族に珍重されたといい、奥州平泉の中尊寺で使用されているのも奄美大島産が用いられたのではないか、との見解も少なくない」(「日経電子版 南島史が塗り替わる 環東シナ海交易の結節点」本田寛成)。

 <琉球弧を舞台とした南方物産交易は、城久遺跡群の出現を契機としておそらく激変したにちがいない。言い換えれば、城久遺跡群の展開時期に南方物産の大量需要が発生していたにちがいないのである。古代並行段階から中世並行段階にかけて、それは外来者の移動を伴う大規模な社会変動を琉球弧に生じさせたわけである。奄美大島を中心とするヤコウガイ大量出土遺跡、喜界島の城久遺跡群、徳之島のカムィヤキ古窯跡群は、そうした社会変動の証左である。それらの遺跡をめぐる人びとの動きは、従前の琉球弧の考古学研究における貝塚時代後期の停滞的社会の理解では説明できない。(『日琉交易の黎明――ヤマトからの衝撃』谷川健一編)>

 注目される石鍋やカムィ焼土器の出土
 城久遺跡群から、大量の石鍋の破片やカムィヤキ土器が出土していることも注目される。奄美大島のヤコウガイ、徳之島のカムィヤキ土器などを合せて考えると、「南島交易の尖端拠点」だったことがうかがえる。
              各種の滑石製石鍋
        各種の滑石製石鍋(1・2把手付石鍋、3~5鍔付石鍋)=
            谷川健一編『日琉交易の解明』から
 
 城久遺跡からは大量に出土している石鍋は、把手付石鍋がほとんどで、「これらの博多から海路、喜界島に運ばれた公算がきわめて大きい」(谷川健一氏)という。石鍋の産地は長崎県下の西彼杵半島とその周辺だけである。
 <西彼杵半島の大瀬戸町周辺で滑石の岸壁から掘り出されて生産された把手付石鍋は家船に乗せられて博多に運ばれ、日本人や宋商人の日曜道具として使用されるか、それを南島との交易のために海路はるばると南に運んだものと思われる。その際も、九州西海岸の航路に熟知していた家船が石鍋を南島にもたらしたのではないかと推測される。その石鍋最初の大量集積地が喜界島であったろう。そして最終地点は八重山まで及ぶのである。(谷川健一編『日琉交易の黎明――ヤマトからの衝撃』、谷川健一著「日宋貿易と日琉交易」)>
 注・家船は船を家とし、そこで一生を終える零細な漁民であるが、船団を組んでおどろくほど遠くまで出漁した。
 
 新里亮人氏(伊仙町教育委員会係長)によれば、九州で製作された滑石製石鍋が琉球列島一円で使用されると、奄美諸島、沖縄諸島、先島諸島の各地でそれらの形を真似た土器(石鍋模倣土器)や、滑石の粉末を混ぜ込んだ土器(滑石混入土器)が製作されるようになった。先島諸島は奄美、沖縄諸島とは異なる文化圏に属していたが、滑石製石鍋の使用とともに奄美、沖縄諸島と同じ文化圏に統一されたという。

 <これと同時に琉球列島では畑、田んぼの跡地、炭化した米や麦、鉄製の農具などが遺跡から発見されるようになり、農耕を行なっていた証拠が出揃うようになる。琉球列島における滑石製石鍋と石鍋模倣土器は、農耕社会の成立と足並みをそろえるように出現するのである。(『日琉交易の黎明――ヤマトからの衝撃』)>
 石鍋と模倣石鍋の普及は琉球列島における農耕社会の成立と不可分の関係を持ったようだ。

 城久遺跡群から大量に出土した「カムィヤキ」も注目される。徳之島で生産されたとみられるこの硬質の陶器は、琉球弧一円に広がっていったからだ。
 <九州南端から台湾にかけて弧状につらなる島嶼(しょ)群の南西諸島では、古くから表面が灰色をした素焼きの陶器が出土。日本本土の古代から中世にかけて使用された須恵器と似ていることから「類須恵器」と呼ばれていた。壺が多いが、甕(かめ)、鉢、碗(わん)などもある。

 北はトカラ列島から南は波照間島や与那国島までが主な流通範囲である。鹿児島県本土でも見つかっているが、生産地不明で、どこで誰によって作られどのように流通したのか、手掛かりが長く見つからなかった。類須恵器に注目が集まったのは分布域が後の琉球王国の版図とほぼ重なるからだ。
 この類須恵器は琉球文化圏全域で共通に見つかる最も古い遺物といえる。生産から流通、拡散の実態解明が進めば琉球王国の成立過程や実態の理解につながるのではないか、との期待がある。

 生産現場跡が見つかったのは1983年、鹿児島県徳之島の伊仙町だった。東西約1.5キロ、南北約800メートルの範囲に約100基もの窯跡が確認された。詳細な分類の決着はついていないものの、地元で「亀焼(カムィヤキ)」と言われていたため、類須恵器はカムィヤキと呼ばれるようになった。南西諸島で最初の陶器生産はここで始まったのだ。
                     把手付石鍋と鍔付石鍋の分布と製作所後の位置
               把手付石鍋と鍔付石鍋の分布と製作所跡の位置
               (谷川健一編『日琉交易の解明』から )
 生産されたのは11世紀から14世紀にかけて。製作技法や窯の作り方、色調は朝鮮半島製の無釉陶器との類似点が多い。後期には中国的な要素が強くなってくるというが、「技術は陶工が朝鮮半島から徳之島に渡来して伝わった」との見方も専門家から出ている。(「日経電子版 南島史が塗り替わる 環東シナ海交易の結節点」、本田寛成)>

 カムィヤキの生産と流通が琉球に及ぼした影響について、安里進氏は、琉球王国成立の「前提となった」とする。安里氏は、とくにカムィヤキの流通域が琉球列島全域をカバーしていることと、高麗陶工の招致という点に着目している。先島諸島まで経済圏の一体化が促進され、この「共通する経済圏を土台にして領域支配を南北に展開したのが琉球王国であった」とする(豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』、安里著「琉球王国の形成と東アジア」)。

 さらにカムィヤキの開窯は、「11世紀後半から12世紀前半において、朝鮮半島(高麗)・南九州(日本)という北からの強力なインパクトが琉球列島へ及ぼされ、琉球史の転換を促進する画期的な歴史的事象であった」と指摘している。(同書)
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