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琉球弧の歴史と喜界島(その4)、城久遺跡群の担い手

城久遺跡群を担った人びと
 「南島交易の尖端拠点」とされる喜界島の城久(ぐすく)遺跡群を担った人々は、どのような人たちだったのだろうか。
吉成直樹著『琉球の成立―移住と交易の歴史』では、次のように推察している。その要旨を紹介する。
<9世紀頃に姿を現した初期の城久遺跡群の担い手は一体どのような人々だったのか。
①大宰府が南島経営の拠点を南下させ、何らかの所職を置いた
②南島の朝貢確保のため喜界島を拠点化し、11世紀からは九州勢力の南島経営が拡大し、移住者集団の直接支配がおこなわれた
③担い手は日本古代国家の大宰府官人や九州の在地勢力。第1期は朝貢を促す存在、第2期は生産物の交易の管理・統制と経済的権益の獲得、時に軍事的機能を備えた
④国家的様相が濃厚に認められ、生活の内実は生業を伴っておらず、休息的意味あいが強く、初期の造営主導者は遣唐使であった。>
 ここで注目されるのは、担い手として大宰府や遣唐使、九州の在地勢力の名が上げられ、「生業」を伴っていないことから、島の在地の人びとではなく、外来者、移住者が主体と考えられていることである。 
                 
吉成氏は、この遺跡群の担い手について、次のように指摘している。
<外来者を主体とする遺跡群であったと考える。
①大宰府が「貴駕島」に奄美島人追捕を下知したと考えるならば「貴駕島」に官衙が存在していたと考えられる。
②出土遺物をみる限り、外来者遺物が大半を占め、在地性がほとんど認められない。
③越州窯系青磁碗のほか、土師器碗・坏(つき)、黒色土器などを時間的に連続して受容していた。外来者が渡島したと考えなければ解決できない。>

続いて、第2期の担い手について、次のように指摘している。
<第2期の交易者
 11世紀後半から12世紀前半の最盛期にどのような人々が城久遺跡群の交易拠点に関与していたか。
①宋商人
②「日本」の政治的管理と在地の人びと
③高麗商人あるいは高麗人
高麗陶器の陶工によって徳之島でのカムィ焼生産が開始され、その主要な消費地が喜界島と徳之島であったとすれば、喜界島の交易拠点には高麗商人をはじめとする高麗人が加わっていたと考えられる。 
④南九州の在地勢力
大宰府の下から離れた勢力が独占的に交易活動を担う状況になったと考えるのが妥当であるかもしれない。>
                サンゴの石垣
                     喜界島のサンゴの石垣(喜界町HPから)
鈴木靖民氏は、喜界島の役割について次のようにのべている。
<喜界島は古代のおよそ前半には古代国家ないし九州勢力の駐在施設のある「朝貢」すなわち支配拠点であり、後半には日本、東アジア各地につながる奄美諸島の交易、交流のセンターであったことが浮き彫りになってきた。>
喜界島が第1期と第2期でその役割と担い手が大きく変化したことがわかる。

吉成直樹氏は、城久遺跡群の変化の背景について次のようにのべている。
「城久遺跡群の11世紀代の変化は、中国において唐が906年に滅び、宋によって979年に統一されるまでの動乱の引き起こした東アジア世界の変容と無縁であるとは考えられない。宋の建国によって唐代の朝貢貿易は衰退し、自由貿易への変化していく。東シナ海の海商たちの活動が活発化したことは容易に推測できる。管理貿易の拠点であった大宰府の鴻臚館(こうろかん、古代の迎賓館)は11世紀半ば頃まで存続したが、後に博多を舞台とする自由貿易への変化したのも、こうした動きに対応するものである」(『琉球の成立―移住と交易の歴史』)
  
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