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琉球弧の歴史と喜界島(その3)、先進地だった奄美

 沖縄本島より先進地だった奄美
 奄美諸島は、15世紀には琉球の支配下にあったので、周辺部分のように見られていたが、それより前の11,12世紀ころは、「琉球弧の中で最も早くから開けた地域」だったそうだ。
 
 谷川健一氏は、「最先端のヤマト・喜界島の城久遺跡」と題して、次のような見解を述べている。 
 <奄美大島にほど近い喜界島には台地の上に城久とよばれる集落があり、そこの遺跡から大量の石鍋の破片やカムィヤキ土器、または青磁や白磁などが出土した。それと奄美大島のヤコウガイ、徳之島のカムィヤキ土器などを合せて考えると、大宰府や薩摩の豪族による南島経営の最前線、あるいは博多商人や宋商の南島交易の尖端拠点として、城久遺跡はきわめて重要な位置を占めていたことが見えてくる。
 これからすれば、11,12世紀の奄美諸島は、琉球弧の中で最も早くから開けた地域であったことは明らかである。これまで琉球王国にとって奄美諸島はその周辺部分とみなす考えが一般的であった。第一尚氏の統一王国以後はそうであったことは確かであるが、それ以前、つまりグスク時代の黎明期においては奄美のほうが沖縄本島よりもはるかに先進地帯であったことは喜界島の城久遺跡は如実に物語っている。そして城久遺跡の背後には博多の日本人商人群や宋商の影がちらついている。商人たちの南島交易への飽くなき欲望は、喜界島や奄美大島をステップとして、南島交易をついには琉球弧の南の果ての八重山まで押し進めている。(『日琉交易の黎明――ヤマトからの衝撃』谷川健一著「日宋貿易と日琉交易」、出所『甦る海上の道・日本と琉球』(文春新書)>
         
                 YouTubeから「城久遺跡群」を紹介する
 

 11,12世紀といえば、琉球はまだグスク時代の黎明期である。奄美諸島はヤマトによる南島交易の拠点化、九州や中国、朝鮮との交易などを通して、早くから開けた地域となり、琉球弧で奄美は「先進地帯」だったという。
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