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琉球弧の歴史と喜界島(その2)、突出した位置占める島

琉球弧でも突出した位置を占める喜界島
 城久(ぐすく)遺跡群が、とくに研究者たちに衝撃を与えたのは、基本的にほぼすべての遺物が島外から持ち込まれたものだったということ。同じ奄美諸島でも、土師(はじ)器や在地の土器が圧倒的主体である奄美大島とはまったく状況が違っていた。城久遺跡群の調査によって、喜界島が当時の琉球弧の島々の中でも突出した位置を占めていたことがうかがわれるという。
 <中でも、国衙(こくが)や官衙(かんが)といった当時の国の役所に相当する施設周辺でしか出土しない中国産の越州窯系(えっしゅうようけい)青磁が179点も出たことは、単なる辺境と思われた小島が実はそうではなく、当時の南西諸島海域で突出した位置を占めていたことを明確に物語っている。(「日経電子版 南島史が塗り替わる 環東シナ海交易の結節点」、本田寛成著)
                  城久遺跡群
                  城久遺跡群(喜界町HPから)
 <また、朝鮮半島産の初期高麗青磁や無釉陶器の出土が特筆される。交易は朝鮮半島を含んだ環東シナ海を巡って行われていたことがうかがえるからだ。
 
 それはカムィヤキが4000点余りと大量に出土したこととも関係する。カムィヤキ出土例としては生産地の徳之島と並び圧倒的な数量にのぼる。朝鮮系の技術が用いられたとされるカムィヤキの成立と、朝鮮半島産遺物が集中的に見つかったことには密接な関連があるとみるのは自然なことだろう。
 さらに、長崎県の西彼杵半島で11世紀後半から生産されたことで知られる滑石製石鍋が約3600点、計83キロとこれも大量に出土している。滑石製石鍋は沖縄以南の宮古・八重山地方の遺跡で、カムィヤキや中国製陶磁器とともにセットで出土するケースが多い。いずれも喜界島経由でもたらされ、一大交易圏が形成されていた証しと受け取れる。(同)>
 
この遺跡が、大規模であるだけでなく、遺物はほとんどが島外から持ち込まれたものであり、そこは「国家的な行政機関」があり、 「南方物産の交易拠点」として形成されていたことがうかがえる。
 なぜ、この喜界島に城久遺跡群が形成されたのだろうか。「島の人口規模が小さく、外来者による占拠が容易だったから」という見方がある。島の台地上に、大規模な遺跡が展開された要因としては、島内のいたる所に湧水が豊富であること、高所であることから防御性に優れていることなどが考えられるという。
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