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琉球弧の歴史と喜界島(その1)、城久遺跡群

琉球弧の歴史と喜界島

 奄美大島の東約25キロに周囲50キロに満たない小さな島、喜界島がある。島の中央部に城久遺跡群(ぐすくいせきぐん)がある。2002年から始まった一連の遺跡群の発掘調査で、研究者を驚かせる遺物と遺構が次々と出土した。ここは9世紀から15世紀にかけて遺跡だが、最盛期は11世紀から12世紀前半だという。琉球が農耕社会から、有力な豪族が割拠するグスク時代に向かおうとする頃、すでに最盛期を迎えていることになる。広大な遺跡から発掘された遺物は、計約5万9000点にのぼる。喜界島で交易が活発に行われていたことを示している。
 先日、県立図書館でたまたま喜界島とこの遺跡について書かれた著作を目にした。喜界島は、琉球王国の時代、1466年に尚徳王みずから2000人の兵を率いて征討した歴史がある。

 「喜界島は文正元年(西暦1466年)の琉球王の喜界島侵攻からおよそ150年間琉球王の統治下にあったが、慶長14年(西暦1609年)の島津藩の琉球侵攻の結果、琉球から分割されて島津藩に属した」。喜界町ホームページでも島の沿革をこのように記している。
 なぜ、琉球国王が遠い喜界島までわざわざ遠征したのか不思議な思いがあり、興味を持っていた。関係する著作を読んでみると、喜界島のことはもちろん、城久遺跡群の発掘で明らかになった奄美諸島から沖縄を含む歴史像は、よく知らないことばかりだ。そこには琉球弧の歴史を考える上で、とても興味深い内容が多々あった。私の興味と関心にかかわる部分をかいつまんで紹介をしておきたい。

 台地上に広大な遺跡群
 <喜界島には現在、131の遺跡があります。1985(昭和60)年の先山遺跡に始まりこれまでに数次にわたり発掘調査が実施され、その成果として縄文時代前期の約6,000年前に喜界島に人が住んでいたことや平安時代(9世紀)~室町時代(14世紀頃)にかけての大規模な集落があったことや、九州や沖縄などの南北両地域と盛んな交流が行われていたことなどが分かってきています「喜界島町HP」>
               喜界島全図、喜界島町HP
                    喜界島全図(喜界町HPから)


 城久遺跡群はどのような遺跡なのか、どのような意味を持っているのだろうか。
 吉成直樹著『琉球の成立―移住と交易の歴史』は、要旨次のように解説している。
<喜界島の台地上に展開する城久遺跡群の発見は、琉球弧の歴史像を転換させる大きな衝撃を与えたと言ってよい。
城久遺跡群の特徴をごく簡単に要約すれば、海成段丘面上の高所(90~160㍍)で営まれた広大な遺跡群であり、在地の兼久式土器などがほとんど出土しない「非在地的遺跡」ということになる。帰属年代はおおよそ9世紀から13世紀とされ、9世紀後半から10世紀前半(第1期)と11世紀後半から12世紀前半(第2期)に盛期があり、ことに後者がもっとも盛行した時期とされる(喜界町教育委員会、2008)。
 現段階で確認されている遺跡群の面積はおよそ13万平方メートルであり、9~13世紀頃の遺跡としては琉球弧における屈指の規模である。また、300棟以上の掘立柱建築物跡が確認され、山田半田遺跡から検出されている大型建物跡は規模、構造からみても単なる集落跡ではないことをよく表現している>。
 ただ、城久遺跡群について、「国家的な行政機関(官衙、カンガ)、さらには南方物産の交易拠点として形成され、台地上の広範囲にわたって多くの人々が暮らしていたとしても、どのような生業が営まれていたのかを含めて、その社会像を明瞭に描けないという点が課題として残る」(同書)という。
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