レキオ島唄アッチャー

大和の城より古い沖縄の石積み城壁

當眞嗣一氏の『琉球グスク研究』から紹介の続きである。
 
 中世城館には石垣の城壁はない
 <城という字は、その字が示すとおり、土と成の2字からできている。もともと日本では、溝(堀)を掘り、その掘りあげた土を盛って土塁をつくることで防御施設とした。…城というとすぐ天守閣が聳える豪壮華麗な城をイメージしがちであるが、この種の城が出現するのは、中世末から近世初期にかけてであり、それ以前の城はすべて土の城であった。>

 <日本の中世城館には、グスクの城壁石垣のような精巧な石垣は認められない。石垣が日本の城郭に利用されたのは、16世紀後半の永禄年間前後であったといわれている。その点、グスクに切石積みの精巧な石垣が出現するのは勝連城跡(下写真)や今帰仁城跡の発掘成果からほぼ14世紀前半から中葉ごろと見られており、城郭建築における石垣発展の面からいえば、2世紀前後日本本土より沖縄の方が古いことになる。>
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 <グスクが造営される時期はほぼ12~13世紀前後からで、この時代の琉球は、農業と東アジア諸国との交易で得た富を基盤とした地方領主である按司が出現し、互いに貿易の利権や支配領域の拡大をめぐって争った国家胎動期であった。>
 <城というと高い石垣や天守閣、白亜の城壁を考えがちであるが、沖縄のグスクにも本土の中世城館にも、天守閣や白亜の城壁は存在しない。本土の城で天守閣や白亜の城壁が存在するのは近世の城郭になってからである。中世の城館は堀や土塁、切岸が見られるだけで、何の変哲もない山や丘同然である。
 その点、沖縄のグスクでは、石塁や石垣が残っているので本土の中世城館と比較すればむしろ城らしく見えるのが多い。>
                    
  <グスク石積みにはいろいろな形態や構造が認められ多様である。用材の取り方からいえば、石面の形状として野面と切石があり、それぞれ野面石、加工石と呼ばれる。石積み技術には野面積み、布積み、相方積みと称される積石技術があり、基本的に野面積みから布積み、そして相方積みへという変遷を辿っている。>
                虎口攻防、今帰仁城(3)
    
         上図は首里城の歓会門虎口での攻防の様子、下図は今帰仁城の攻防の様子
            (當眞嗣一著『琉球グスク研究』から)
                    虎口攻防、今帰仁城(2)

 <城の出入口を虎口というが、グスクにみられる虎口は大陰虎口から石造拱門の虎口までいろいろな形態がみられる。大陰虎口とは、城壁をただ一か所だけ、ある幅で断ち切って出入口をつけたもので最も簡単なものである。このような虎口では、虎口に殺到する敵兵を祓うことができないので、沖縄のグスクでは虎口の前に長く屈曲する通路を取り付けることによってその弱点をカバーした。>
                    糸数城跡 (2)
                         糸数城跡
 <石造りの大型グスクの虎口は、糸数城のように古くは石灰岩の石積みの上に木造の櫓を架す櫓門であった。ところが15世紀頃から石造拱門(アーチ)の技術が導入され、座喜味城・中城城・勝連城・知念城などにみる城門として完成するようになった。石造拱門を造る技術は、大陸から学んだ技術であったが、それを城門に取り入れて、城郭建築に利用して発展させたのは、当時の琉球の人々の知恵の結晶であった。この種の石造拱門は本土の城郭建築には見られないもので、ここにも沖縄の石造文化の一端をしのぶことができる。
 首里城の場合は外郭の門に限り石造拱門をかけ、その上に木造の櫓をのせていた。一方、内郭の門の場合には白銀門だけを除き石造の拱門はなく、単に石垣の上に木造の櫓を架すだけであった。櫓は敵の動向を監視し、敵兵に矢を射る屋根がけをしたところであるが、石造の拱門が外郭だけ架けられるのは、城の攻防戦の際、最も激戦になる率の高い場所が外郭の門で、敵から攻められたときに火などで焼け落ちないようにするためで、とくに外郭の城門だけは頑丈にする必要があったからである。
 石造構造をとる虎口では、首里城歓会門のように城壁を少し凹ませて石垣の左右が迫り出しているのが特徴的である。これは、虎口に向かう敵兵に両側から横矢が掛けられるようにするためである。…
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 座喜味城の場合は、石造りのアーチ(上写真)を虎口にし、東側の城壁を鍵の手に折れをつくることによって虎口に殺到する敵兵を後方や側面から射撃できる工夫をしている。>
 
 『琉球グスク研究』には、長年にわたりグスクを調査した研究の成果が盛り込まれていて興味が尽きないが、今回はこれで終わりとする。
 
 
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