レキオ島唄アッチャー

沖縄戦・激戦の地を歩く、その4・中部戦線

 最激戦の中部戦線の戦跡を見る

 南部戦跡を見た後、2008年12月15日には、宜野湾(ぎのわん)・浦添(うらそえ)・那覇地区の中部戦線の戦跡を見た。この日の案内は、沖縄県平和祈念資料館友の会の仲村眞さん。われわれよりも若い世代だ。会社で年次有給休暇をとって案内のために来てくれたという。米軍は1945年4月1日に読谷村、嘉手納、北谷町の海岸に上陸した。
                         沖縄戦中部地図

 沖縄作戦に動員された米軍は約55万人。これに対し、沖縄守備軍は11万人にすぎない。決戦をすれば1週間で全滅する。「捨て石」にされた沖縄は、時間稼ぎのために、水際作戦は放棄した。上陸する米軍たいしに日本軍はまったく攻撃しなかった。

 上陸が4月1日なので、米軍は「エイプリルフールではないか」と気味悪がるほどだった。日本軍は、持久戦のために壕を掘りめぐらせ、地下にもぐっていた。特に、この宜野湾から浦添方面は、高地に陣地を構え、米軍を待ち受けていた。上陸した米軍の南下する部隊は、宜野湾の大山、牧港付近まで、直線距離で8㌔㍍、一週間は、ほとんど無抵抗で一気に進攻してきた。ここから本格的な戦闘が始まった。そして宜野湾から首里までのわずか同6㌔㍍の間に50日もかかるという戦史に残る激戦が戦われた。このため、日本軍は6割の兵力をこの中部戦線で失ったという。

 井戸の下のガマに2カ月間も隠れる
 最初に向かったのは、宜野湾市の我如古(がねこ)にある「チンガ―ガマ」だ。ガマといっても、井戸を降りて行くと横穴のようにガマがある。住宅地の地下に鍾乳洞が伸びており、長さ170㍍あるが、幅は狭く天井も1,2㍍と低い。まるで地下水道のようだ。このガマに通じる縦穴が井戸であり、この付近に5カ所あるそうだ。
  訪れたのは、呉屋さん宅の庭にある井戸(写真)だ。いま使われないので蓋をしてあり、呉屋さんが蓋を開けてくれた。井戸は深さが7,8㍍もあり、用意した金属製のハシゴを降ろしてくれた。時間の関係で入る人は代表3人に絞った。住民はガマに雨戸を持ち込み床や壁に張りつけて生活した。夜間に外に出て食料を調達したという。ちょうど、当時隠れていた89歳の仲宗根さんというおばあさんが出てきて、当時のことを次のように話してくれた。仲宗根さんは、宜野湾より少し北になる中頭(なかがみ)に嫁いでいたそうだ。
                       我如古の井戸

 「米軍が上陸したので、ここの実家に逃げてきたけれど、実家の人たちは島尻(南部)に逃げていて家にはいなかった。このガマに隠れた。一緒に10人くらい隠れていた。近くには30人くらい隠れていた。ガマは狭くて、立つことも歩くこともできない。食べるものもないし、寝るところもない。外に出てやられた人もいた。水を飲み、黒糖をなめて生きていた。2カ月くらい隠れていて、5月14日に救出されたが、そのとき私はまだ22,23歳だったけれど、もう今の年寄りよりもっと歳をとっていたよ」。この壕に住民が避難していることを知っていた米軍は、我如古出身者の協力を得て、ガマにいる人々に呼びかけて救出したという。

  次に向かったのは、嘉数(かかず)高地と西嘉数高地だ。日本軍の陣地は、軍司令部のある首里の前方にあたるこの中部で、高地となっている地形に沿って三重にわたる防御線を築いていた。第一の防御ラインが、嘉数を中心とする線だ。第2の防御ラインが浦添市の前田高地を中心とする線。第3の防御ラインが那覇市の安里(あさと)を中心とする線だった。
 嘉数の高地の下にトンネル壕を掘り、陣地としていた。陣地壕は朝鮮から強制連行した人々に掘らせた。沖縄には、本島はじめ離島にまで多数の朝鮮人が連行され、こうした重労働を強いられていた。仲村さんは「壕を掘った朝鮮人のお墓もあります」という。
 
  中部戦線には、第62師団(石部隊と呼ばれた)が配置されていた。この師団は前年の1944年8月にここに送られて来たそうだ。嘉数の部隊はなぜか京都の出身者が多かった。米軍は戦車を連ねて猛攻撃を加え、海と空からも砲撃と空爆を加えた。日本軍は、斬り込みの夜襲や爆薬箱を抱えて戦車に体当たりするなど玉砕戦法をとったが陥落した。
 沖縄戦の研究で知られる大城将保さんは、沖縄戦のガイド講習のさいに次のように指摘した。「日本軍の特攻作戦として、『一機一艦船』」の名で神風特攻隊が米艦船に突っ込む。海では、ボートで米艦船に当たる特攻部隊を座間味島、渡嘉敷島に配置し準備していた。秘密を守るため住民は島外には出さない。軍民同居のもとで島民の集団自決も起きたのです。陸では『一人十殺、一戦車』と称して、爆薬を抱えて戦車に突っ込む。日本軍は、空でも海でも陸でも特攻をさせたのです」。
 両方の高地には、「京都部隊激戦死守の地」の碑や、この地で全滅した「第62師団独立歩兵23大隊慰霊碑」などいくつもの碑が建てられている。「戦後、遺骨収集をしながら碑を建てたそうですが、まだ小さな骨はたくさん残っていますよ」と仲村さん。そういえば、「京都の塔」が嘉数台公園にある。「京都の塔」は、他の地方の碑が軍人を英霊扱いするだけで、沖縄県民の犠牲にほとんど触れていないなかで、「多くの沖縄住民も運命を倶(とも)にされたことは誠に哀惜に絶へない」と記している。きわめて稀な碑である。
                       京都の塔碑文
 これらの激戦地は、当時、どれほどの戦死者が横たわっていたことか。想像を絶する光景が広がっていただろう。観光ガイド講習を受けている講習生みんなで歩いて行っていると、ふと横の女性が、何か手にもって、それを頭の高さまで掲げながら進んでいることに気がついた。「あれ、何だろう。お菓子かな?」と思ってみた途端、他の人に勧めた。「これ使う人はどうぞ」。別の女性がさっそく袋から手にとって地面にパラパラと撒いた。「あっ、塩だ」。それは、戦死者の霊、魂を静めるための清めの塩だった。
 新しく買ってきたのか、大きなマース(塩)袋を一袋持って歩いている。このあとも、戦跡の先々で、このお塩がよく使われた。遺骨が見つかった場所では、塩を撒きながら「静かに眠ってね」と祈るようにつぶやいていた。南部でも中部でも、慰霊碑を見る場合も、まず戦死者に黙祷するのが先だった。沖縄は死者をとても丁重に扱う。とくに、先祖は、自分たちを守護してくれる霊力をもつと考えられている。先祖神そのものだ。だから、仏壇は、大型タンスほどの大きさがあり、ことあるたびに仏壇やお墓にたくさんのお供えをして、御願を重ねる。そうした伝統と風習が、戦跡めぐりでも塩で清める気持ちの背景にあるのだろうか。
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