レキオ島唄アッチャー

八重瀬町のヌヌマチガマを見る

 野戦病院だった「ヌヌマチガマ」
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 八重瀬町新城にあるヌヌマチガマにはじめて行ってみた。ガマの入口付近は、「戦争遺跡公園」として整備され、「世界恒久平和を祈念する」と刻まれた立派な碑が建っている。
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 ガマを訪れた県外の生徒たちが、置いて行った平和を祈念する小石が並べられていた。
 ガマ全長約500mの洞窟で、西側(病院あれ施設側)は「ヌヌマチガマ」、東側は「ガラビガマ」と呼ばれている。
 ガマについての白梅同窓会による解説文を刻んだ石碑が建っている。
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  以下、説明文から要約する。
 沖縄戦で八重瀬町(旧東風平村、旧具志頭村)では、当時の人口の5割近い約7500人の住民が亡くなった。日本軍は当初、米軍の上陸地点を八重瀬町南部の港川と予想していたため、港川海岸を囲むように日本軍の陣地が配備され、港川海岸に近いこの周辺も使用された。
 富盛の八重瀬岳にあった第24師団(山部隊)「第一野戦病院の本部壕」で増加する負傷兵を収容できなくなったため、「東風平分院」とヌヌモチガマが「新城分院」として開設された。
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 このガマには、軍医・看護婦・衛生兵と、補助看護婦として第一野戦病院に配属されていた沖縄県立第2高等女学校の学徒隊(戦後の呼称「白梅学徒隊」)から5人が派遣され、炊き出し、包帯の洗浄などで地元の住民や女子青年も動員された。
 ヌヌモチガマには、手術台・病室・二段ベッド等が設置されていたが、負傷兵が増加するのに伴い、藁を敷いた地面にも寝かされるようになり、多い時には1000人を超えたと言われている。戦況の悪化により食事のおにぎりも1日2回から1回になり、薬品も包帯材料も不足して十分な治療を行うことができなくなった。
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 1945年6月3日東風平分院とこのヌヌモチガマ(新城分院)は閉鎖され、翌4日には、第24師団第一野戦病院も閉鎖された。病院の閉鎖にともない身動きのできない重傷兵は、衛生兵によって毒薬の青酸カリを投与されたり、銃剣などで「処置」(殺害)された。その数は約500人とも言われている。
 ヌヌモチガマ、ガラビガマは病院壕としてだけではなく、住民たちの避難壕としても利用されたのかは不明だが、沖縄戦では、行き場を失った多くの住民たちの命を守ったのは、このようなガマであった。
 白梅学徒隊は6月4日に病院長の解散命令を受け、鉄の暴風と形容されている地上戦を彷徨し56人中22人が戦没している。
 

 ヌヌマチガマの名前の由来ははっきりしないそうだ。「ヌヌ」とは通常、ウチナーグチ(沖縄語)で「布」のことを意味するので、布に関する由来があるのだろうか。
 
 ヌヌマチガマはいま少しややこしい問題がおきている。
八重瀬町が昨年6月、戦跡「ヌヌマチガマ」の指定管理と入壕受け付けを特定のNPO団体に委託した。このため、これまでガマを案内していたNPO法人沖縄鍾乳洞協会(山内平三郎理事長)=同町=は、別の民有地に地主を許可を得て新たに入り口を設けて独自に案内を始めている。
 ガマを訪れた日は、沖縄鍾乳洞協会が修学旅行生をガマに案内することになっていて、それに同行させていただき、ガマの内部を見ることができた。
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 ガマの入口には、戦争で使われた手榴弾や銃弾の穴が開いたヘルメットをはじめ数々の戦争遺品が置かれている。
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 畑の中にポッカリと開いたガマの入口は、通常は危ないので蓋をしている。入り口から木製の階段を下ると、鍾乳洞の大きな空間が広がっている。
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 戦後、ゴミ捨て場にされていた。沖縄鍾乳洞協会の人たちがみずから片づけ、階段も整備したそうだ。
 
 ライトを消すと真っ暗闇で、昼も夜もわからない状態になる。学徒隊の女子学生たちは、夜中でも負傷兵のうめき声に起こされ、傷口のウジ虫をとり、手当てする。ベッドもなしに寝かされた負傷兵と負傷兵の間に隙間を見つけて仮眠をとったという。
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 「毎日、兵隊の手や足が切断され、その手足を捨てに行った」という証言を聞いたこともある。
 ふたたびこのような惨禍を繰り返してはならないという思いを新たにする。 
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