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大城按司墓と大城城跡をめぐる(10)、子孫だった儀間真常

 若按司の子孫だった儀間真常
 大城按司真武の子孫に「琉球の産業の父」と呼ばれる儀間真常(ぎま しんじょうがいる。
 儀間真常について、家譜から要約して紹介する。
六世 真常 儀間親方
 万暦21年(西1593年)に父真命の家督を継いで真和地間切儀間村の地頭職に任ぜられた。
万暦24年(西1596年)押明冨勢頭(おしあけとみせどう、首里城々門の守備を担当する勢頭部の巳の日番の一つである押明冨という組の頭役のこと)となった。
 万暦33年乙巳(きのとみ、西1605年、49才)に野國総管が中国から鉢植えの蕃薯(はんすいも)を持ち帰ってきてあった。真常はこの事を聞き知って苗を分けてもらい、且つその栽培方法を教えてもらった。そのとき野國総管が言うには「葛を輪に曲げて、それを地面に埋めて植え適当な時期が来たとき葛を持ち上げて、薯を掘り出して用いるべきである」と。
                   儀間真常の墓
                      儀間真常の墓
 真常がこのような方法で栽培を研究すること7,8年に及んだ頃大飢饉がやってきた。
そこで真常は、「この薯を国中に拡めて五穀の補いにすると良いであろう。そうしたら、どこの国の宝がこれに勝るものがあろうか」と思った。そこで、これを国中に拡めるための栽培を更に続けること数年にして葛を切って見ると、その條(つる、蔓)は数尺にも伸び、不思議にも原野(畑)に広く生い繁っていた。
 (野國総管が中国から薯を持ってきた時から)15年程経った頃、真常の努力で薯は広く国中に拡まって充分にその役割を果たしていた。このことは、何とかして人々を飢餓の苦しみから救ってやりたいという真常の願力(ぐわんりき)のしからしめるところなのである。
 
 万暦37年(西1609年)4月に我が琉球は薩摩の侵略するところとなってその支配下に置かれ、尚寧王が恭順の意をあらわすため薩摩へ上国なされたとき勢頭役(せどうやく、註・警護役)となりお供を申し上げた。…
 真常は帰国するとき薩摩から木綿の種子を持ってきてあった。都合の良いことに、日本の女で梅千代と実千代の二人(註・姉妹)が泉崎村に住んでいたので、真常はこの二人に木綿の大帯を織らしめ、その技術を地元の女たちに伝授せしめた。これが我が琉球における木綿布織造のはじまりである。…
 田地奉行に任ぜられ、受けた命令は「百姓を督励して米の収量を増やし、薩摩への仕上米(しのぼせまい、薩摩に納める貢租米)を完納させるようにせよ」ということで、毎年3回国中を巡って督励し、米の収量が増え、仕上米も完納でき、褒美を賜わった。
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                   儀間真常が請来した住吉神社
 尚豊王の時代(西1621年~1640年) この国には昔から甘蔗(註・さとうきび)は有ったけれども、砂糖の製法は知らなかった。
 そこで真常は、天啓葵亥(みずのとい)の年(西1623年)に進貢船が中国の閔(びん)に行くとき、儀間村の人を閔に派遣して砂糖の製法を習得せしめ、琉球ではじめて真常の家において砂糖を製造した。そして終にこの製法を国中に拡めた(註67才)。
天啓4年甲子(西1624年)正月15日に親方の位に昇進した。
 
 本年5月4日に爬龍船の競争が行なわれた(註・那覇港又は漫湖においてであろう)。その素晴らしさは昔から今に至るまで嘗て無かった程の壮観であったので、真常は前もって、この競争を国王にご覧に入れたいと思い、準備を整えて、謹んでお願い申し上げたところ、おききとどけになり、尚豊王は競争をご覧になられ、その上真常の家にお成りにあそばされた。…
 西1644年死亡した。88才であった。
 
 真常が請来した住吉神社  
 儀間真常が請来したといわれる住吉神社がある。儀間真常を顕彰する石碑が建てられている。そこには次のように記されている。
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                      儀間真常を顕彰する石碑
 「住吉神社は、往昔、儀間村の地頭で、甘藷の伝搬栽培法、木綿織および砂糖創製などで産業界の大恩人といわれている麻氏六世儀間真常公が、西暦1611年(慶長16年)に尚寧王の随員として薩摩から帰国のときに海上守護の神として請来し当初儀間村の自宅内に奉安尊崇した」

 石碑は、確かに「麻氏六世儀間真常」と記されている。先祖にあたる大城按司真武は「唐名は麻普蔚、童名を思武太といい、麻氏(名乗頭「真」)の元祖である」(「ウィキペディア」)。麻普蔚・大城按司真武の後裔、六世であることがわかる。
 
 大城按司墓を訪ねた時、そこから儀間真常にまでかかわりがあるとは予想もしなかった。歴史には、思いがけないつながりがあるものである。
 これまで東大里グスク跡は二度、訪れたが、かつて対抗関係にあった大城グスク跡には行ったことがなかった。今回、訪れて見て、南部にたくさんあるグスクの中でも、この大城グスクが南山の歴史とかかわって興味深い伝承のあるグスクであることがよくわかった。これまで無関係のように思われた史実や史跡がつながりを持っていたことに驚いた。
       終わり 2016年8月12日       文責・沢村昭洋              
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