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大城按司墓と大城城跡をめぐる(9)、垣花に移り住む

 垣花に移り住む
 家譜で見ると、大城城から脱出した若按司「真宗」は、玉城間切の垣花へ逃れ、那覇港の南岸の儀間村へと移り住み、その付近を玉城の垣花と同じ垣花と称したという。玉城の垣花といえば、有名な井泉、垣花樋川(ヒージャー)や垣花城跡があり、何度か行った。那覇市の垣花もすぐ近くである。でも垣花の地名にこんな歴史と由来があったとは、大城城跡を訪ねるまで知らなかった。
家譜はこの後、次のようなことを記している。
 三世真福 儀間平良親雲上(ぎまてえらぺえちん)、四世真孟 儀間親雲上、五世真命 儀間親雲上は、中国への進貢のさい、官舎役(進貢船を宰領し、物資買い付け役を兼務する)、使者として閔(中国福建省)に行った。儀間平良をはじめ地頭職にも任ぜられた。
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                    垣花樋川
 親雲上は親方の次の位階であり、儀間家は通常一か村を領有する脇地頭だった。当時、親雲上のほとんどが首里に居住して不在地主と同じだった。麻氏儀間家は、2世から8世まで二百数十年間、領地の垣花の儀間村に住み、領民との間に特別な親和感が育った。
 領地に住んでいたが故に、旱魃や台風のたびに飢餓にあえぐ領民の苦労をその目で見、肌で感じ、何とかしてこの惨めさから逃れさせる方法はないものかと考えることが長年続いたのであろう。そのことが六世真常をして、藷をひろめ、木綿布を創り、黒糖を造る意欲の原動力となったに違いない。「『麻姓家譜』中の用語解説」は要旨、このように解説している。
 この家譜を見る限り、前に紹介した伊敷賢氏がのべた二世真宗の「息子の平良親方と孫の儀間子は難を避けて慶良間島へ逃げた」という記述は見られない。 
                    1700年頃の那覇(那覇市歴史博物館)
                     1700年頃の那覇(那覇市歴史博物館)                    
 ただし、『麻氏家譜』によると、「三世真福が生れた年が1451(景泰2)年で、二世真宗が亡くなった1416(応永23)年の35年後に生れたことになっており、何らかの理由で二代ほど欠落していると考えられる。大城子の子の平良親方の子には、平良掟親雲上など9名の男子がいたといわれ、儀間真福はその次の世代ではないかと考えらえる」(伊敷賢著『琉球王国の真実~琉球三山戦国時代の謎を解く』)。つまり、系図上、二代ほど書かれざる欠落があるのではないか、と伊敷氏は見ている。
 それにしても、真宗が生れたのは、家譜では1411年(応永18)である。亡くなったのはわずか5歳となる。読谷に『麻氏 大城若按司真宗之墓』の石碑があるそうだが、尚巴志の北山攻めに従軍するには早すぎる。もし5歳で死亡していれば、その子どもはいなかったことになるだろう。なお疑問が残る。
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