レキオ島唄アッチャー

大城按司墓と大城城跡をめぐる(8)、落ち延びた若按司

 落ちのびた若按司の行方
 大城按司は、東大里軍によって滅ぼされたが、大城按司の若按司が逃れて生き延びたので、「小禄儀間村に子孫が広がり、真武は麻氏門中の祖となった」と言われる。その子孫のなかに、「琉球の産業の父」とされる儀間真常(ぎま しんじょう、1557―1644年)がいる。あとから詳しく紹介する。
 「麻姓家譜 正統」(『大里村史資料編』から)から要約して紹介する。 
一世 真武 大城按司(うふぐすくあじ)
童名は思武太金(うふんたがんにい)と称し、唐名を麻普蔚(まふい)という。
その父母は誰であるかわからない。妻は玉城間切垣花村の人である。
長男は真宗である。(大城按司が自害した経過を記す)
 (注) 又吉家の云い伝えによると、大城按司の妻(按司の妻のことを女按司=うなじゃちという)が絶世の美人であったため、大里按司が横恋慕してこれを奪い取るために戦をしかけてきたということである。
 (又吉家とは、九世のとき、次男真周が家督を継ぎ首里の邸に移り住み、長男真代が儀間家の垣花の家屋を継いだ。真代の子孫である又吉家のこと。)
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                   南城市垣花にある垣花樋川(井泉)
 二世真宗 大城之子(おふぐすくぬしい)
 妻は真和地間切儀間村の人である。大城按司が自害したとき、その子真宗はまだ東西もわきまえない程幼なかった。
 母(注・女按司)は真宗を連れて、自分の実家の玉城間切垣花の村にのがれていたが、下の世の主大里按司が此の事を聞き知って攻め寄せてくることを恐れて、あちらこちら逃げ廻った末に真和地間切儀間村の下田原の藪の中にかくれ住んだ。
 そして後々儀間村の住民たちが、その薮に移り住むようになって一村を形成するに至ったので、この村のことをいつの間にか垣花と呼ぶようになった。このことは、我が家に先祖代々受け継がれてきた言い伝えであって、全く真実のことなのである。
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