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大城按司墓と大城城跡をめぐる(7)、尚巴志の仇とは?

 尚巴志の東大里城攻めは敵討ちなのか?
 尚巴志が東大里城主を滅ぼしたのは、大城按司の敵討ちという見方とは逆の見方もある。
 <真武の幼い子の真宗(しんそう)は小禄儀間村に子孫が広がり、真武は麻氏門中の祖となった。
 1416年(応永23)年、尚巴志の北山攻めに従軍した真宗は、読谷山陣中で自殺したといわれている。真宗の墓は読谷山間切久良波村に造られ、『麻氏 大城若按司真宗之墓』の石碑が建てられている。尚巴志に見出された若按司だが、父の仇討ちを果たしたいと尚巴志に願い出たが、断られたことに失望したのが原因だったと伝えられている。しかし別の説では、自殺は表向きで、真宗は尚巴志側近に暗殺されたともいわれている。
                   佐敷、尚巴志の碑
                佐敷グスク跡に建つ尚巴志の名を刻んだ石碑
 大城按司真武の父である先代大城按司は、玉城王の長男で本来中山を継ぐべき人であったが、門閥関係で大城按司三代目となった。それ以前の大城には尚巴志の祖父・鮫皮大主を婿にした大城按司二代目がいたが、カヌシー(真武の父)に立ち退かされた。尚巴志にとって真宗は、祖母の仇であった。玉城王直系の曾孫である真宗の存在が三山統一をめざす尚巴志にとって排除しなければならない存在だったとも考えられる。
  若按司真宗が不可解な死を遂げたので、その息子の平良親方と孫の儀間子は難を避けて慶良間島へ逃げた。渡嘉敷島阿波連村の儀間家は、子孫と称して先祖の故地を参拝している(『琉球王国の真実~琉球三山戦国時代の謎を解く』伊敷賢著)>。
 
 伊敷氏は、真宗は「父の仇討ちを果たしたいと尚巴志に願い出たが、断られた」という。そればかりか、尚巴志の祖父・鮫皮大主を婿にしたのは大城按司二代目だったが、真武の父に立ち退かされたため「尚巴志にとって真宗は、祖母の仇であった」とする。
 ただこの場合、真宗にとって仇討の対象である汪英紫はすでに死亡し、その息子の屋冨祖が東大里城主のとき尚巴志に攻められて「大里城外で討死、巴志のために城を奪われ、南山系大里は三代にして滅んだ」とされるので、実質的には仇討は成就していたのではないだろうか。
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