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大城按司墓と大城城跡をめぐる(6)、東大里城を攻めた尚巴志

 尚巴志が東大里グスクを攻める
 1387年、島添大里按司・汪英紫が病死したので、豊見城城主の汪応祖が東大里城主の座についた。しかしその後、1403年、南山王の承察度が亡くなり「王に子なし」として汪応祖が南山王に就き、東大里城には弟の屋冨祖(やふそ)が入った。
 屋冨祖は、「父や兄のような政治的な手腕がなかったので、新興の大勢力佐敷按司尚巴志とつねに小ぜり合いが続いた」(『大里村史通史編』)という。 
 <智謀に欠けた大里按司は施す術を失ない、佐敷勢を防ぐ力なくついに大里城外で討死、巴志のために城を奪われ、南山系大里は三代にして滅んだのである(同書)。>
                    佐敷グスク跡
                     佐敷グスク跡の案内板
 東(島添)大里グスクは、佐敷の新興勢力の尚巴志のに攻め滅ぼされることになる。それは、仇討ちでもあったといわれる。尚巴志の先祖の伝承についてふれておきたい。
 <尚巴志の祖父、佐銘川(さめかわ、鮫川)大主(うふぬし)は伊平屋島の豪農でしたが、百姓たちに危害を加えられそうになって島を脱出、馬天に来たと伝えられています。漁労に従事し、ある日、魚売りに出て、大城(グスク)の按司と出会い、認められて、その(娘)婿となるのです。
 その大城按司の娘との間に生れたのが、尚巴志の父、思紹(ししょう)です。その子の尚巴志は21歳のとき(1392年)、父に代わって佐敷按司となり、そして、外祖父の大城按司を滅ぼした仇として、島添大里按司を討伐するのです。これが1402年です。
島添大里按司を討った尚巴志は佐敷から島添大里グスクに移り、かねて島添の支配下にあった知念・玉城まで、その支配下に置いたのでした(与並岳生著『新琉球王統史 察度王 南山と北山』)。
                      2佐敷グスク跡
                     佐敷グスク跡  
 この大城按司と鮫皮大主との出会いについて、別の伝承もあるらしい。
 <新里村に落ち着いた鮫皮大主は、馬天港から漁に出て生計を立てていた。大城の城の前を魚を担いで通りかかると、門番に大城按司の前に連れていかれた。真鶴金姫(マジルガニ)の婿にしたいと伝えた。姫の婿選びに悩み、トゥチ(占い師)に聞くと、「朝一番に城を前を通る男が姫の婿になる運命の者である」という。その当日、鮫皮大主が通ったのである。伝説も後からの“こじつけ”である。
 鮫皮大主が伊是名城を伊平屋大主二代目に明け渡し、佐敷間切に来たのは、大城按司に請われて、婿になるために来たと考えられる。大城按司は、「仲南山」から伊平屋島に亡命していた甥の鮫皮大主(母は初代大城按司と兄弟)を政略的に呼び寄せた。
 鮫皮大主と真鶴金との間に一男一女が生れ、男子は成長して苗代大比屋(ナーシルウーヒャー)と称した。苗代大比屋は豪農の美里之子の娘を娶り、推されて佐敷按司になった。尚巴志は佐敷按司の子なので佐敷小按司と呼ばれた。(伊敷賢著『琉球王国の真実』)>

東大里グスクを攻略した尚巴志は、南山王の居城の島尻大里グスクに向かうのではなく、中山王の居城を攻める。中山を亡ぼした巴志は父苗代大親(尚思紹)を中山王の位に即がせた。尚巴志は1416年、北山を討つと1429年、南山王の他魯毎を滅ぼし、琉球統一を成し遂げた。ここに南山は終焉を迎えた。
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