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大城按司墓と大城城跡をめぐる(4)、悲しい落城伝説

 悲しい大城グスクの落城伝説 
 東大里城主と大城按司は、やがて争うことになる。この戦さと大城グスクの落城をめぐっては、悲話がある。
大城グスクから少し北に位置する島添大里グスク(東大里城)を拠点としていた島添大里按司、汪英紫(おうえいし)は、大城按司に妹を嫁がせ第二夫人とし、親戚関係を楯に領地問題をもちかけた。大城按司の嫡妻は垣花城の出自であり、大城按司の所領は遠く佐敷の地まで及んでいた。汪英紫が明貿易を行なうためにはその領地を往還する必要があり、ことあるごとに相争うようになった。
 
 雌雄を決することになり、長堂辺りで大合戦になった。大里軍は逃走の途中、稲福原の淵に伏兵を配備しゲリラ戦術を展開した。大城軍は、逃走する大里軍を見て勝った勝ったと乱舞して喜んだ。旗手の平良蒲戸が踊り狂った拍子に軍旗を倒した。城の物見台から戦況を見ていた妃、若按司らは、軍旗が倒れるのを見て敗戦したと思いこみ、城に点火し、崖下に身を投げた。若按司は外間子という家来に助けられ、母の生家、垣花村に落ちのびた。
大城按司は、出陣の際「負けたときは旗を倒す。そのときは城に火を放ち自らの命を絶て」と伝えていたという。
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                     大城城跡
 長堂で勝ったと喜んでいた大城按司は、振り返ると、大城グスクが炎上しているので、茫然自失しているところに、大里軍が斬りかかってきて力尽き自刃した。(『大里村史』を参考にした)
 
 なぜ旗が倒れたのか。「真実は、旗頭の平良蒲戸は汪英紫に買収され、わざと軍旗を倒したというのである」「戦時中は死んでも軍旗を倒してはいけないのが、旗頭役の務めであった。大城軍の配線は、計画的であった事が推察できる」。伊敷賢氏は『琉球王国の真実』でこのような見方を示している。

 交戦の原因について、こんな説もある。
 「又吉家の云い伝えによると、大城按司の妻(註・按司の妻のことを女按司=うなじゃちという)が絶世の美人であったため、大里按司が横恋慕してこれを奪い取るために戦をしかけてきたということである」(『大里村史資料編』)。
 又吉家とは、麻姓大城按司真武の子孫、九世の長男真代の子孫である。
大城按司の妻が美人で横恋慕したというのは、お話としては面白いが、実際には所領をめぐる思惑など勢力争いがあったのではないだろうか。
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