レキオ島唄アッチャー

大城按司墓と大城城跡をめぐる(1)、ボウントゥー墓

大城按司墓と大城城跡をめぐる

 南城市の大里城址公園からユインチホテル方面に車で走る機会があった。大城按司の墓の案内板があったがその時は立ち寄れなかったので、後日出かけてみた。
                   IMG_1895.jpg

 珍しい「ボウントゥ墓」
 高台を走る道路のすぐ脇にお墓がある。説明板では次のように紹介されている。
 「大城按司真武は三山時代の人で、14世紀中期から末期ごろまでの大城城の城主であったが、麻姓家譜によると、島添大里按司(大里城主)との戦いに敗れ、稲福村の西で自害したという。亡骸は同地に葬られ、小石を丸く積み上げて塚としたという。その塚が現在の墓の原形といわれているが、いくたびか改築され、1892年(明治25)に現在地(大里村字大城)に移築された。この墓は琉球石灰岩の岩山をくり抜いて墓室をつくり、前面は切石積みとし、上部は以前の塚を模してドーム状の石積みとなっている。その形から俗に<ボウントゥ御墓>とも呼ばれており、沖縄の一般の墓とは異なる独特の形式を持つ墓として貴重である。」
                  IMG_1897.jpg
 墓室のある切積石の上に、丸いドーム状の石積みが載っている墓は、他では見たことがない。なぜ「ボウントゥ御墓」と呼ばれるのかはよくわからない。伊敷賢氏は「ボウントゥハカ(坊頭型墓)」との漢字をあてている。丸い石積みが坊主頭に似ていることからこう呼ばれているのだろうか。
 右端にはお墓の説明を刻んだ石碑が建てられている。
                  IMG_1902.jpg

 大城按司墓と道路をはさんではす向かいに、大城按司の妻である「ウナザラの墓」と「ウツーヌアジ墓群」の案内板がる。少し下ると「按司のお墓」「ヌルのお墓」の石碑があり、そこから石段を登って行くと、崖を利用した古いお墓がある。ハブでも出そうな感じなので、用心しながら登った。「ウツーヌアジ墓群」とは誰を葬っているのであろうか。
                   IMG_1903.jpg
 「麻姓大城按司真武塚碑記」には、「大城按司の先祖の墓もまた稲福邑の南の小城山の下にある」と記している。
 「大城按司三代目(カヌシー)の墓は大城グスクの東方の山中にあり、1904(明治37)年に『麻氏先祖之墓』という石碑が建てられている。この墓は御寵之墓(ウチューヌハカ)とも称し、城主が愛用していた寵(ウチュー、かご)が納められていたという。先代大城按司墓の側に先大城ヌルの墓があり、『大城のろくもい先元祖』と書かれた石碑が建っている」(伊敷賢著『琉球王国の真実』)。
                   IMG_1904.jpg
 これによれば、按司やヌルのお墓には、先代大城按司や先大城ヌルが祀られているらしい。
先祖とは誰なのか。大城按司は「英祖王統第4代玉城王の次男であったということであるが、もしその通りだとすれば、同王統第5代西威王の弟であったことになるが、真偽の程は解らない」(『大里村史資料編』)
「大城按司真武の父である先代大城按司は、玉城王の長男で本来中山を継ぐべき人であったが、門閥関係で大城按司三代目となった。それ以前の大城には尚巴志の祖父・鮫皮大主を婿にした大城按司二代目がいたが、カヌシーに立ち退かされた」(伊敷賢著『琉球王国の真実』)
                   IMG_1906.jpg

 英祖王統(1260~1349年)は4代目、玉城王(在位1313?~1336年)であるが、5代目の西威(せいい)王が死んだ際、幼子世子を廃し、察度が国王となったので、英祖王統は90年ほどで終焉を迎えた。もし伝承が事実なら、大城按司真武は英祖王統の流れをくむことになる。
スポンサーサイト

沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |
<<大城按司墓と大城城跡をめぐる(2)、大城按司の居城 | ホーム | アルテで「丘の一本松」を歌う>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |