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奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(14)泰期は読谷山から小禄に移った?

泰期は読谷山から小禄に移った?
 泰期をめぐっては、読谷山の宇座城にいた伝承と小禄城にいたという伝承の関係をどう考えればよいのか、わからないままだった。比嘉朝進著『沖縄戦国時代の謎』を読むと比嘉氏の推理がのべられていて興味深い。要約して紹介する。
<浦添世の主察度の異母弟の泰期が居城していたのか定かでないが、宇座に住み、琉球で初めて進貢使者として、明国へ朝貢した(1372年)。
 察度は、明国往来や南方貿易には、東シナ海に面する読谷の長浜港が適地と考え、弟の泰期を宇座に常駐させたと考えられる。その後、察度は中山の拠点を浦添城から首里城に移したことに伴い、海外貿易は那覇泊と泊港に定め、泰期も那覇に転居したのであろう。
                 泰期
                     読谷にある泰期像
 泰期は那覇港に近い小禄森口原の標高45㍍の丘に、小禄城を築いたといわれ、金満(カニマン)城ともよばれた。後(クシ)ヌ嶽は金満御嶽ともいゝ、泰期金満按司を祀る拝所といわれている。小禄城から南東に1㌔半の近距離にある南山系の豊見城城とは小競り合いがあったという。>
 中山王の兄・察度が居城を浦添城から首里城に移したことにともない、泰期も貿易の拠点港を読谷山・長浜港から那覇港・泊に移したという見解である。これだと、読谷と小禄に広がる泰期伝説をつなぎあわせて、合理的な説明が可能となる。

 また、泰期が小禄時代にすでに金満按司と呼ばれ、小禄城が金満城と呼ばれていたということは、泰期は、早くから鍛冶屋にかかわっていたことになる。「察度王統一族は鍛冶職の技術集団」ともいわれているとすれば、泰期が奥間鍛冶屋を営む前から鍛冶職であったことも考えられる。でなければ小禄時代に金満伝説が生れるはずがないだろう。
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