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奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(15)、鉄伝来のルーツ

 各地に残る察度王統の後裔伝承
 再び、伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山戦国時代の謎を解く』に戻る。
<察度王弟の天願金満(ティングァンカニマン)按司の長男小禄金満按司は、武寧王が滅んだ時は金満グスクとも呼ばれた小禄城主だったが、24年後に南山が中山に攻め滅ぼされた時に、国頭間切奥間村に逃げた。奥間村は祖父の奥間大親の故里でもあり、安心して暮らせる場所だったのである。小禄金満按司の息子も国頭間切奥間村に移り住み、奥間金満と称し奥間鍛冶屋の祖になった。国頭村奥間の屋号東江(アガリー、座安姓)がその子孫である。奥間カンジャーは、尚円王になる前の青年・松金(マチガニ)を助けた人物である。昔は比地村からヌルを出していたが、尚円王即位後は奥間村の屋号東江の娘の世襲になり、奥間ヌルと称した。>
 <奥間カンジャーは、尚巴志に滅ぼされた「後中山」武寧王の従兄弟の子で、察度王弟泰期の長男小禄金満按司の子が奥間カンジャーである。奥間カンジャーの長男は奥間村の屋号東り(座安姓)の祖になった。屋号東りの裏山に、鍛冶職の神を祀った祠があり、戦前まで使用したといわれる「ふいご」も奉納されている。>

 伊敷氏は、泰期(金満按司)の長男も金満グスクと呼ばれ小禄城主だったとしている。尚巴志が武寧王を攻め中山王となり、さらに南山が滅ぼされた時、その息子とともに国頭村奥間に逃げ、奥間鍛冶屋の祖となったという。
 泰期(金満按司)は、父の跡を継ぐため奥間村から宜野湾間切の真志喜に帰ったとされている。帰った後、誰が鍛冶屋を受け継いだのかよくわからなかったが、泰期の長男とその息子が奥間に移り住み、鍛冶屋を営んだとすれば、奥間鍛冶屋の継承と系譜の上で、合理的な説明が可能となるように思う。
                     奥間大親碑
                 森の川にある奥間大親、察度、天女羽衣の碑
 小禄金満按司と鉄伝来のルーツ
 亀島靖氏は、金満按司と鉄伝来のルーツについて興味深い見解をのべている。
<金満按司の「金満」は、財産を持つ金満家の字を書くが、「カネマン按司」と呼ぶ。「金」は「カネ」であり「鉄」を意味する。(方言で「鉄」のことを「カニ」、「フルカニ」と言う。)金満按司は鉄を加工する技術を持っていたと言うことである。按司はクワ、スキ等の農機具を造り、豊見城の農民にも無償で提供し、豊見城の地域も取り込んで行こうとする政策をとっていた。では、なぜ、按司が鉄の加工技術をもっていたのか。実は兄、察度の父は奥間大親(オクマ・ウフウヤ)である。(大親は現在であれば部長クラスの村長で地域の有力者。)奥間のルーツは国頭の奥間である。
 国頭から中城の奥間部落に移ってきた人々の子供が察度の父である。キーワードの奥間は「カンジャヤー」(鍛冶屋)である。沖縄の鍛冶屋は国頭村の「奥間」がスタートであり、奥間に上陸した鉄を加工する本土系の人であった。当時、鉄を握るものは琉球を支配するものにつながっていった。
 沖縄では鉄は採れないので本土と貿易して鉄を手に入れた。鉄を加工して、刀、槍、弓矢の矢尻を作り、軍事力の増強を図り、また、クワ、スキ、等の農機具を作って農業生産を高めた。鉄を握る男は地域の実力者にのし上がり支配者になっていった。>

 <鉄を所有しても加工する技術を持たないとただの石ころと同じ(で)ある。
 琉球人は加工技術(タタラ、フイゴ)を持たない。この鉄の加工技術を持っていたのは北から降りてきた人達だった。そのルーツは朝鮮半島からの渡来人で奈良の東大寺の大仏を建造する時に加工技術をもたらしたと言われている。彼等はその本拠地を九州に置いた。>
<この鉄を加工する集団は、博多の商人達に頼まれて琉球にやって来た。鉄の加工技術者の集団は、琉球における北の入り口であった伊是名、伊平屋にまずやってきた。そして伊是名から本島へ最も近い(最短距離20㎞)運天港に着いた。そのため、今帰仁は沖縄で最初に北の文化が到来して栄えた。
                    辺戸岬
                       沖縄本島北端の辺戸岬
 一方、東に目をやると本島側にうっそうとした森林がみえる。彼等は船で海岸に地近づき、小舟に乗り換え川を坂登った(遡った)。そして現在の比地川の河口近くの奥間に上陸し移り住んだ。これが奥間カンジャ屋の始まりである。また、今帰仁の城主から呼ばれて今帰仁城の近くに、直営の鉄の工場を作った。これが現在「カジヤバル」と言う地名として残っている。その鉄の加工集団は次第に本島を南に下り中城の奥間に住んだ。中城の奥間は国頭の奥間から来た人たちであった。奥間から移住してきた人の末裔が察度の父親(奥間大親)になる。つまり、察度一族は大和から来た鉄を加工する集団の流れを引いているか、これに近い人達と言うことになる。察度の弟である金満按司はこうした鉄の加工集団をバックに、小禄で確実に勢力をそばしていくことができた。(『琉球歴史の謎とロマン~琉球王朝時代の小禄の歴史~』亀島靖講演録から)>

 亀島氏は、本土系の鉄の加工技術者の集団が北部にやってきて、奥間に上陸して鍛冶屋を始めたとする。そこから南下して中城の奥間に住み、その末裔が奥間大親だと見る。そして、「察度一族は大和から来た鉄を加工する集団の流れを引くか、これに近い人達」と推察している。奥間の地名が国頭や中城などにあり、そこにはどういう関係があるのだろうかと思っていたが、やはりつながりがあったようだ。
 沖縄への鉄の伝来に大和系の鉄の加工技術者の存在がかかわっていることは、すでに広く指摘されているところである。
奥間大親の周辺にも、大和人とのかかわりがうかがえる。すでに紹介した史料、著作でも、真志喜五郎の父が大和人であるとか、奥間大親の父(祖父とも)辺士名里主の父並里按司は「大和から来た人」という説もある。
 伊敷賢氏は「察度王統一族は鍛冶職の技術集団」とし、亀島氏は「察度一族は大和から来た鉄を加工する集団の流れを引くか、これに近い人達」とする。察度一族が鍛冶技術をもつ集団、もしくはそれに近い人たちという点では共通している。

 奥間鍛冶屋にかかわる伝承をさまざまな研究者の見解とともに紹介してきた。それらを調べるにつけ、琉球への鉄の伝来や古琉球の歴史にも深いかかわりをもつ奥間鍛冶屋の伝承は、興味が尽きないがひとまず終わりとする。
  終わり            2016年6月1日       文責・沢村昭洋  

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