レキオ島唄アッチャー

奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(13)、那覇港を統治した小禄按司

察度王統一族は鍛冶職の技術集団 
 伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山戦国時代の謎を解く』から続けて紹介する。
<1330年(元徳2)年頃、奥間大親は屋号又吉の娘を後妻にして、謝名ムイと姉を育て、弟の泰期が生れた。謝名ムイが浦添按司から中山察度王となると、泰期は側近として活躍し金満(カニマン)按司と呼ばれた。1378(天授4)年、察度王が明国に朝貢を始めると、泰期は使者となり明に渡航して宝物を持ち帰った。泰期は始め小禄間切小禄城主だったが、小禄城を息子の小禄金満按司に譲り、自らは天願按司(ティングァンアンジ)となり大和とも交易した。北谷金満按司も泰期の息子である。「泰期」と書いて「タイキ」と読ませているが、本来は太刀(タチ)と呼ばれていた名前の当て字であると考えられる。泰期(タチ)は、刀鍛冶(タチカンジャー)であったといわれている。
 泰期は、読谷山間切に宇座グスクを築き、長浜港から中国と交易した。戦前まで沖縄で生産されていた「読谷山(ユンタンザー)」といわれた品種のサトウキビは、その時、泰期が中国から持ち来ものであるといわれ、背丈が低く幹も細かった。…
 糸満市字兼城には奥間城址があり、察度王六男兼城按司の次男が奥間城主となっていた。奥間城では鍛冶が行われ、金城(カニグスク)とも呼ばれ、後世に首里金城と区別するため「兼城」と表記されるようになった。>

 ここでは「察度王統一族は鍛冶職の技術集団」という見出しから興味を引く。とくに泰期についていくつか注目点がある。一つは泰期の名の由来を「太刀」としていること。刀鍛冶であればその名の由来としてありうることではないだろうか。
 小禄城主だったが、「息子の小禄金満按司に譲り、自らは天願按司(ティングァンアンジ)となり大和とも交易した。北谷金満按司も泰期の息子である」という。小禄の森口公園を見に行った際、確かに「金満ミテン」「カニマンウタキ」があった。これが泰期(金満按司)と結びついているとは思いもしなかった。
                   金満ミテン006
                   小禄の森口公園内にある「金満ミテン」の碑
 那覇港を統治した小禄按司
 なぜ泰期は、小禄城主だったのだろうか。歴史家の亀島靖氏は、次のようにのべている。
<察度(中山王)は、現在の小禄小学校の東側にある森口公園(戦前は森口と言う御嶽があった)に監視所を設けてこの地域を泰期(金満按司)に支配させた。当然、ここは南山の領域なので南山の最先端である豊見城グスクとしばしば小競り合いが続いていた。そこで、泰期即ち金満按司は、森口御嶽がある丘に城(小禄城)を築いた。現在、金満按司を祭った御嶽は浦添、東風平等の各所にみられるが、金満御嶽は、元々は小禄城内の「イデ」と言う一つの御嶽(ウガンジュ)であった。沖縄では城の中にウガンジュ(神様)があるが本土の城にはない。…
 
 金満按司は、このイデを中心に約2000坪の城を築き南山と戦をした。…察度の弟である金満按司は、那覇港の最初の統治者で管轄者であった。按司は小禄城を築城したほか、貿易に必要な倉庫も造った。現在の明治橋の袂にある「オモノグスク」がその場所である。
 中国や東南アジアからもってきたモノを琉球国内、朝鮮や大和で使うものと、それぞれ振り分けする必要があり倉庫を造った。…
 小禄地域は当時、中国、日本、東南アジアの窓口であった。この港を管理していたのが金満按司であり、貿易で力をつけ小禄地域を支配していた。戦さを知らない協同生活をしていた海洋民族もこうした武力闘争の中に組み入れられ、金満按司に仕える武士と農民に分かれ、次第に階級が出来ていった。(亀島靖講演録『琉球歴史の謎とロマン~琉球王朝時代の小禄の歴史~』)>

 泰期(金満按司)は、小禄城主だったとき、目の前の南山と対峙し、那覇港を統治し貿易で力をつけたという。一方、泰期はすでに見たように、読谷山間切に宇座グスクを築き、長浜港を使って中国と交易し、察度王の王弟として明国に10年間に5回も進貢していたともいわれる。中山国が中国と交易するのには、みずからが管理していた那覇港を拠点にする方が便利ではないのか。なぜ遠い読谷山にグスクを築き長浜港を使って交易をしたのか。まだよくわからないところがある。

スポンサーサイト

沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |
<<接近した火星をデジカメで撮ってみた | ホーム | 奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(12)、奥間大親の父も鍛冶屋?>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |