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奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(12)、奥間大親の父も鍛冶屋?

 奥間鍛冶屋の伝承について書いている間に、別の用件で伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山戦国時代の謎を解く』を読んでいたところ、同書でも立ち入って言及されていることを知った。関係するか所を抽出して紹介する。
             
 身分を隠すため天女伝説
 <察度の父は謝名村の奥間大親(ウクマウフヤ)で、母は『羽衣伝説』の天女のモデルになった恵慈(エージ)王(英祖王統3代目)の次女真銭金(マジニガニ)である。奥間大親は宜野湾間切真志喜村に住み、王女との間に姉・聞得大君(チフジン)と弟・察度が生まれた。王女は身分を隠すため“天女”と言い伝えられたものと考えられる。真銭金は弟の玉城王の乱世を避けて、奥間大親とともに謝名村へ逃げて来たのである。真銭金は奥間大親に嫁いで聞得大君と察度を生んだ後、大里按司と再婚して、承察度(ウフザトゥ)と汪英紫(エージ)を生んだ。汪英紫は、後に島添大里按司と称した。聞得大君は甥の武寧王が滅んだ時、久高島の屋号大里に逃げた。屋号大里は島添大里按司の長男が元祖である。>
注・「奥間大親は羽衣のような衣装をまとった姫を、政変を避けて匿っていたと思われる。当時は玉城王による乱世で、奥間大親は王女を守って玉城から逃げて来たと考えられる」(伊敷氏)。
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                 森川公園にある天女羽衣像
 <伝説によると、(英祖王統4代目)玉城王が政治をかえりみず酒乱に陥ったとか、幼い西威王に代わり母親が政治を私物化して王政を混乱させたと一般的にいわれているが、実際は、門閥間の抗争による分裂政治に陥っていたというのが真実に近いと推察される。派閥争いに敗れた恵慈王(英祖王統3代目)の旧臣たちは、沖縄各地に逃れて行った。玉城の旧糸数按司や富里按司をはじめ石原按司など、多くの重臣たちが宮古や八重山の島々に散って行ったと考えられる。>

 奥間大親の父も鍛冶屋?
 <奥間大親の父は奥間カンジャーと称し、中城間切奥間村から宜野湾間切真志喜村に移り住み、百名大主(ヒャクナウフヌシ)の十二男真志喜大神(マシキウフガミ)二代目真志喜五郎の養子になった。奥間カンジャーの墓は、大里城址西側の金満御嶽(カニマンウタキ)にある。
 奥間カンジャーの父は国頭間切辺土名村の生まれの辺土名里主(ヘントゥナサトゥヌシ)で、若い頃は佐敷間切新里村に住んでいたが、後に宜野湾間切謝名村に移り住んだ。伝説によると辺士名里主の父は並里按司で、大和から来た人だといわれ、沖縄中を巡行して五穀の種子植え付けを指導したと伝えられている。並里按司は佐敷間切新里村屋号並里で祀られ、墓は同村の沢川御嶽の山中にある。並里按司は「仲中山」英祖王時代の人で、同じく大和から来て浦添城下で仏教を広めた僧禅鑑(ぜんかん)と同時代の人物である。>

 伊敷氏は、奥間大親の父を奥間カンジャーとし、すでに鍛冶屋を営んだと見ている。中城間切奥間村から宜野湾間切真志喜村に来たとする。奥間カンジャーの父が辺土名里主、祖父が並里按司だとのべている。慶留間知徳著『琉球祖先宝鑑』では、奥間大親の父が辺土名里主、祖父が並里按司としていた。伊敷説では、辺土名里主は祖父にあたることなる。
 また、真志喜五郎の養子になったのも、奥間大親ではなく、奥間カンジャーとする。奥間大親とは別に、その父に「奥間カンジャー」がいたというのは、同書で初めて聞くことである。奥間大親の父の代から鍛冶屋だったことになる。
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