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奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(11)、 代々受け継がれてきた鍛冶屋

 金満按司が妻方に残した子どもとは
 『元祖之由来記』(宜野湾真志喜村奥間門中)の国頭奥間の系譜で注目されるのは、金満按司が「子供ハ妻方ニ養育セシメ、自分ハ生産地宜野湾真志喜ニ帰郷シ」と記していることだ。通婚の女性が多く、「後室は同村の奴留也」とされているので、国頭奥間村では、国頭の女性を妻としていたのだろう。一男一女をもうけた妻がどういう女性だったのかは不明である。帰郷のさい、妻子は当地に残して自分だけ帰ったことがうかがえる。
 妻方で養育させたという子どもは国頭で育ったことになる。その子孫は成長してどうなったのか。史料には、帰郷したあとの鍛冶屋継承の記述はみられない。だが、金満按司を元祖とする奥間鍛冶屋が代々受け継がれてきたのは確かだから、その子ども、弟子が鍛冶屋を受け継いだとみるのが自然だろう。
                         かぎやで風節歌碑
                奥間鍛冶屋を継承してきた座安家
 国頭奥間の系譜で、注目されるのは、察度の父親の家系とは別に、奥間親方とその子、奥間大親の系譜が記載されていることである。
 鎌倉芳太郎氏は解説で、「長男の国頭親方は、年代的に見て『馬姓家譜大宗』一世の国頭親方正胤のように思われる」とのべている。つまり、奥間鍛冶屋を始祖とする座安家・国頭家の系譜は、この奥間親方の子孫ではないかという分析である。
こちらの奥間大親について、「在所ハ同奥間村ノ根屋東リト云ウ家ナリ」と記されている。根屋とは、集落の古い本家を意味する。「奥間の鍛冶屋すなわち東(あが)りは、奥間最古の家」(『国頭村史』)とされているので、もう一人の奥間大親が奥間鍛冶屋である可能性がかなりあるのではないだろうか。
                     奥間鍛冶屋の系図
奥間大親の系図
 この鎌倉氏の記述を参考にして、もう一歩、大胆に推理してみた。
 奥間親方は「母国頭比地村安佐慶ノ女子ナリ」とされている。この女性・母が、金満按司の奥間時代の妻だった可能性はないだろうか。もしそうだとすれば、金満按司の妻方で育ったという子どもが奥間親方で鍛冶屋を継ぎ、その長男が奥間大親、その子どもが鍛冶屋の長男(座安家)、次男(国頭親方正胤)となるのではないか。
 この推理が的を射ているのなら、いくつかの疑問が解決する。
一つは、金満按司が奥間鍛冶屋を営んだ時代と、金丸を助けた奥間鍛冶屋とその子の長男、次男の時代とは、年代的に空き過ぎている。だが、金満按司の子や孫が奥間鍛冶屋を継いで、金丸を助けたとなれば、この年代的な問題は解消する。

 もう一つ、家系図上の問題も解決する。石垣島大浜のナリヤ鍛冶工の子孫で八重山の鉄器と鍛冶屋について研究されている生盛功氏からいただいた奥間鍛冶屋の家系図(国頭村教育委員会提供資料から)を見ると、「奥間鍛冶屋ノ元祖」の系図は、奥間大親の長男・察度、次男・泰期・金満按司…{奥間鍛冶屋ノ元祖、と記されているだけでその後がない。
一方「座安家・国頭家関係系図」は、奥間鍛冶屋の下に長男、次男が書かれているだけで、親の奥間鍛冶屋とは誰だったのか、名前がない。金満按司とも記されていない。つまり、金満按司と、座安家・国頭家の親にあたる奥間鍛冶屋は同一人物なのか、その子孫なのか不明である。系図上のつながりが判然としない。
 でも、もう一人の奥間親方、奥間大親が金満按司と奥間時代の妻との子や孫であれば、系図としてつながりが明確になる。さまざまな疑問が一挙に解決する。
 ただし、これはあくまで仮定の話、私の勝手な推理であり、それを裏づける材料はいまのところ持ち合わせていない。
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