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奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(10)、奥間を遥拝した国頭御殿家

奥間を遥拝した国頭御殿家
 『沖縄文化の遺宝』からの続きに戻る。
<同書(注・『元祖之由来記』宜野湾真志喜村奥間門中)には、またその時代の国頭奥間の系譜を載せている。
 奥間親方 母国頭比地村安佐慶ノ女子ナリ、ソノ長男ハ奥間大親ナリ、在所ハ同奥間村ノ根屋東リト云ウ家ナリ、ソノ長男ハ国頭親方ナリ、(中略)国頭親方ハ唐、大和往復シテ後首里ニ登ル
 この奥間大親は察度王の父親とは別人で、首里に登ったというその長男の国頭親方は、年代的に見て『馬姓家譜大宗』一世の国頭親方正胤のように思われる。この人が国頭奥間にある時放浪中の尚円を助け、その関係から尚泰久王の時呼ばれて首里に登り、尚円大位(ママ)に登るや国頭間切惣地頭職に任ぜられた。既に述べたように、国頭奥間は今も往昔の鍛冶道具を祀る鍛冶屋屋敷として知られ、また正胤の子孫は代々国頭御殿家として繁栄し系譜も続いているが、今の当主国頭正敏家でもやはり神檀には鍛冶道具を祀り、祖先の出身地国頭奥間を遥拝している。これから察するに、宜野湾間切真志喜の奥間も鍛冶屋で、そのために察度王の金銀鉄の冶金伝説が生れたのかも知れない。そしてこの国頭奥間鍛冶屋の技術は、その道具から見て、古い時代に本土から伝わったところのものである。>
 鎌倉氏の著書からの引用は以上である。
                      奥間鍛冶屋系図

 ここでは、「宜野湾間切真志喜の奥間も鍛冶屋」で、その技術は「古い時代に本土から伝わった」という。真志喜五郎や金満按司は航海業だったされるので、鍛冶に必要な鞴や資材を仕入れ、その技術を習得する機会もあっただろう。真志喜の奥間で鍛冶屋を営んだとしても不思議ではない。そうすれば、察度の鉄をめぐる伝説、泰期が国頭奥間村で鍛冶屋を始めたこととも結びつく。
 この史料ではまた、金満按司が鍛冶屋を始めたのは「唐大和往復」した後としている。先に鍛冶屋になったという説には、やはり無理があるようだ。
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