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奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(9)、子を残して帰郷した金満按司

 妻方に子を残して帰郷した金満按司  
 『沖縄文化の遺宝』からの紹介に戻る。
 <『球陽』(巻之一)察度王紀には、奥間大親は何人の後裔か分からないと記してあるが、この書(注・『元祖之由来記』宜野湾真志喜村奥間門中)では、奥間大親は辺土名里主の次男として国頭奥間村で出生し、元の延祐年間(1314-1320)、父の行く所を尋ねて中城奥間村に行き一時住し、遂に父の在村の所佐敷新里村に至り、父兄に対面し、久しからずして宜野湾謝名村に到り農事を勤めて働く中に、森川に水浴に来た天女と通婚して一男一女を出生、その一男が察度である。その後、天女飛去の後、又吉親雲上の女子を娶り、三男一女が生れたが、後に真志喜五郎家すなわち奥間根所の家を祭祀して世を終った。因み察度の弟に当る次男金満按司について、同書に左の記載がある。
 金満按司ハ唐大和往復シテ金銀多ク求メ得テ、父ノ産地国頭奥間村ニ至リテ金(鉄)ノ製造焼キ始メテ居ルニ、一男一女出生ス、遂ニハ兄察度ハ中山王位ニ登リ、因テ父ノ相続ノ為メニ、子供ハ妻方ニ養育セシメ、自分ハ生産地宜野湾真志喜ニ帰郷シテ、子孫繁昌シテ世ヲ終ルト云ウ
                西森御嶽石門
               森の川にある西森御嶽石門(文章とは関係ない)
 これで見ると、金満按司は察度王の弟として、唐大和を往復する航海業者として、物資の交易の利益により金銀の財貨を蓄積し、父親の出身地国頭奥間村に帰り、鉄器を製造していたが、此所で一男一女を出生した。やがて兄察度が王位に登ったので、父の跡目を相続するため宜野湾真志喜村に帰郷した。通婚の女性も多く11男2女が生れ、王族として繁栄している。>
 泰期の墓はどこにあるのだろうか。
 察度王の弟とされる金満墓が宜野湾市大謝名東原古墳群にあり、泰期の墓と伝えられているそうだ((下地昭榮著『ねたての黄金察度王』)。

 「唐大和を往復する航海業者」だったという金満按司(泰期)。父の奥間大親が養子に入った宜野湾の奥間家は「真志喜五郎ハ海中ノ業ヲ能クシ、好ミテ島々ヲ巡行シテ後、帰郷シテ世ヲ終ル」とされている。海外への航海をするには、唐・大和への船と航海術、交易についての知見など必要であり、簡単ではないはずだ。泰期はこの五郎の航海の業を受け継いだのだろうか。
 ただ、泰期については、さまざまな伝承がある。
 
 泰期は、読谷の宇座の出身だともいわれる。琉球の古謡集『おもろさうし』には「宇座(読谷)の泰期思いや唐商い流行らちへ按司に思われ」と歌われている。
 宇座の近くには、長浜港があり「この長浜港を使って、泰期は交易をおこなっていた」「『按司に思われ』というのは、その交易の才覚を認められて、察度に召し出されたことを言っているのかもしれません」「察度はこの泰期を『王弟』として、明国への進貢を始めたのでした」(与並岳生著『新琉球王統史 察度王 南山と北山』)
このように海外貿易に長けていた泰期を弟として派遣したという説がある。
 いま読谷では、泰期は「商売の神様」として有名であり、「泰期まつり」の開催や現代版組踊「読谷山花織の宴」にも登場するほどである。
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