レキオ島唄アッチャー

昔の面影残す今帰仁の馬場跡

 昔の面影残す仲原馬場跡
 今泊の集落から東に車で走ると、仲原馬場がある。県内各地にあった馬場がもうほとんどその姿をとどめていないなか、こちらの仲原馬場は広い馬場と松並木がそびえて、昔の面影を残していることで、史跡になっている。
説明坂は、次のように紹介している。
沖縄には昔から各地に馬場があり、農村における民俗行事や畜産奨励のための競馬などに利用されてきました。しかし、ほかの馬場は去る沖縄戦で破壊されたり、あるいは高地や宅地になったりして元の形を失っており、昔から有名な仲原馬場だけが往時の面影を残しています。
仲原馬場は幅約30㍍、長さ約250㍍の長方形になっています。その両側は約1㍍の高さに土を盛り上げ前面に石を積み、上部は芝生で被われた観覧席になっています。

 観覧席の枝振りの美しいリュウキュウマツ(琉球松)は、陽光をさえぎって快い憩いの場をつくり、また戦前まではアブシバレーのウマハラセー(競馬)の際に馬の係留にも利用されたりしました。
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 私が訪れたとき、なぜか馬場跡はたくさんの車の駐車場と化していた。たぶん、近くで建設工事が盛んにおこなわれていたので、関係者が車を止めているのではないか。それでも、空高く伸びた琉球松の並木や、両側の石積み観覧席など、他では見ることができない。ンマハラセー盛んだった往時をしのばせる。
 今帰仁では、この仲原馬場と今泊の馬場はとても有名だったらしい。当時のウマハラセーは、どのように行われていたのだろうか。その模様を表現する文章がある。『今泊誌』の新城紀秀氏「アブシバレーの思い出」である。
アブシバレーとは、旧暦4月の中旬ごろに行われる。畦の雑草を刈り取り、農作物につく害虫(バッタやネズミ)を捕えてきて、海や川に流し、豊作祈願をする行事のこと。
 新城氏の文章から紹介したい。
 アブシバレーはアブシの草をはらって鼠やバッタを駆除し、それらを「イヒャドゥ」に流す行事をし、おひるから村中一斉休業!仕事は絶対にまかりならぬ、きびしい「物忌み」が守られていた。…
今泊馬うい(馬場)の「馬揃り」は仲原馬ういのようなはなやかさはなかったが、今帰仁、本部をひっくるめた一大イベントであった。
 朱塗りの鞍に赤や黄の布で飾りたてた馬、馬乗袴に身をかため、白ハチマキをきりっとしめた騎手の姿はまことにりりしくあこがれの的で子供心をゆさぶった。中でも上謝名の豪傑ブッセーカナヤッチーの勇姿などは一きわ目だつ存在で、今尚脳裏にやきついている。床の間に拝まれる三国志をいろどる関羽将軍に生きうつしであったと思う。

 蔡温も見た親泊競馬
 琉球王朝、尚敬王の三司官として敏腕をふるった蔡温(サイオン)は若い頃、馬で山原の一人旅をしているが、たまたま親泊で馬パラシーのすばらしさに深い感懐を数行の詩に託している。
 1710年の秋で、280年の昔、蔡温29才の若かりし時である。
 戯馬台即興(親泊にて)
「戯馬台前会萬人 西風吹起馬蹄塵 群英従此決勝負 恍似楚王破大秦」
大意は次の通り。「親泊馬ういは黒山のような人があつまっている。ミーニシが吹いて、馬がかけ去ったあとは塵がもうもうとたちこめている。馬スーブ(勝負)に命運をかけた名騎手共が今か今かとまなじりを決した斗志満々の馬上の姿こそ、強国秦を破った楚の豪勇項羽の姿をほうふつさせるものではないか」
                    img_1642[1]
   写真は琉球放送のテレビ画面から
「馬パラシー」というのは、全速力で飛ぶようにかける競馬の「うまかけ」の「かきばい」とは全く趣を異にするもので、コトコト走る「ゐしばい」で馬の「パイ美(デュ)らさ」を見るものである。
 しかし、最後のウンヂミを飾る「ぶり馬」は出場すべての馬が一斉に駆け出して壮観で、方々から口笛も聞こえ、もうもうと立ちこめる砂ぼこりは人馬をかくした。
 馬はほとんど与那嶺から「あがり方」で、地元のシマの馬を見ることの出来なかったのは物足りない思いがした。「草かやー」の「ンジャックヮ」をもてるようなウェーキヤー(裕福な家)でないと飛行機馬小(マーグヮー)のような名馬を飼えなかった故であろうか。
 蔡温時代からいわゆる黒山のような人は、①馬を見る人、②騎手の見事な手綱さばきに「シッタイヒャー(よくやった)」とヤグイ(気合)をかける人、③晴着をきて見られにくるアングヮーター(お姉さんたち)、④うの目たかの目で馬を見ないで女ばかり見てまわるニーセーター(若者たち)、⑤人垣の後ろでガチマヤー(食いしん坊)だけしてまわるワシタワラバーター(子どもたち)と、「遊びに美らさや、人数(ニンズ)のしなわい(遊びが楽しいのは人数が揃ってこそ)」
であった。
 クワディーサーの下にはにわか市場が立ち並び、でかい角のはえた二銭のトグチテンプラ(天ぷら)、タンナハクルー(黒糖を使った菓子)、三銭の揚げ豆腐、ビービンサー、鉄砲、と平素見られぬもので子供の好奇心をそそった。
 
 今帰仁村仲尾次の古老、渡名喜長栄さんは、梅崎晴光著『消えた琉球競馬』で、インタビューに応じて、今帰仁の競馬の思い出を次のように語っている。
「アブシバレーの旧暦4月15日がナーブル・ンマウィー(仲原馬場)、16日がウェルメー・ンマウィー(親泊馬場)。同じ馬が馬場を替えて二日連続で走っていました。この二日間はアブシバレーで農家が休みだから村中から馬場に集まったものです。村の者が一堂に会したのは競馬の時だけでした」
「二頭による一騎打ちの競争でね。一人の審判があらかじめ同じような実力の馬同士を組み合わせておくのです。30~40頭出場したので15~20組の競争でした。宮古馬はとてもおとなしくて力がありましたが、どの馬も布や花を耳の下に飾り付けて、それは綺麗だったですよ」。
 これらを読むと、ンマハラセー(競馬)がいかに人々にとっての楽しみだったのか、そのにぎわう情景が目に浮かぶようだ。

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