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森の川再訪

 森の川再訪
 
 宜野湾市の森の川を再訪した。奥間大親が天女と出会った伝説の井泉である。
 「森の川公園」として整備されている。いまも清水が湧き出ている。石積みが見事な井泉である。
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 飲料の水を汲み、野菜を洗ったり、洗濯をしたのだろう。昔の情景を描いた絵がある。この写真は、数年前に撮影したものである。
                  昔の森の川風景画
 興味を引くのは、その奥に円形に石積みをした場所があることだ。「もしかして、水浴びをしたのか」と思ったが、往時の風景画を見ると、女性が御願(ウガン)をしている。神聖な空間だったのだろう。
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 井泉の北側には、石門があり、その奥は森になっている。西森御嶽(ニシムイウタキ)といわれる。沖縄では、御嶽の前の石門は、拝殿の意味があるらしい。
 「西森の石門の奥には古墓がありますが、これは奥間大親の墓と言われています」(「ヒューマンリレーション」HP「沖縄の神聖スポット」)とのことだ。
ただ、慶留間知徳著『琉球祖先宝鑑』では「死骨は同村の下海の前なる戊亥に向う高墓也」と記されている。
                    西森御嶽石門

 この石門の左奥に古い石碑、「西森碑記」(にしもりひき)がある。説明板がある。
 <尚清王(在位1527年~1555年)の第七子を初代とする向氏(しょうじ)伊江家の人々が、この石碑の前にある石門と森の川の石積み工事を行い、その完成を記念して雍正(ようせい)3年(中国年号・1725年)に建立したものである。
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 碑文には、「森の川で沐浴していた天女と奥間大親(おくまうふや)とが出会い、一男一女が生まれた。男の子は察度と名付けられ、後に中山王に就いた。私たちの元祖尚宗賢伊江王子朝義の母は、宜野湾間切謝名村(ぎのわんまぎりじゃなむら)の野国掟(のぐにうつち)の娘で、名を城(ぐすく)の大按司志良礼(うふあんししられ)といい、尚清王の夫人である。私達子孫は毎年5月、西森および森の川の泉を拝んでいるが、野国掟は奥間大親の末裔であるという伝説があるからであろう。
 これらの事情により、私達は資金を寄せ、石工を集め、石を切り敷きつめ、泉を囲み、門を造った。また、西森の前にも長さ五丈四尺(約16.4m)の石垣を造り、門を開け出入りができるようにした。これらは先祖をしのび尊ぶためである。よって、ここに石碑を建立しその事を記す。
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 大清雍正(ようせい)3年9月吉日、向和憲垣花親方(うぇーかた)朝理・向良顕伊江按司(あじ)朝良、向和声西平親方朝叙」とある。
 碑文の末尾の人物は三司官(さんしかん)の向和声を含めいずれも伊江家の子孫たちである>。
 こんな説明が書かれている。
 伊江島の歴史を学んだとき、尚清王の第7子のことを知った。
 「1,559年(嘉靖38)、始めて伊江島に総地頭が配置された。最初の伊江按司(アジ)には尚清王の第7子尚宗賢が任命された。名乗は伊江朝義と云い、伊江王子と称した。伊江御殿(ウドゥン)創立の祖である」(『伊江村史』)
 母親の尚清王夫人が奥間大親の末裔なら、伊江家は奥間大親の血をひいていることになる。 
 この説明によって、奥間大親と伊江御殿とのつながりを知ることができた。
 
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