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奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(6)、尚元王を助けた国頭家

 尚元王を助けた国頭家
 金丸(後の尚円王)を助けた奥間鍛冶屋を始祖とする国頭家は、その後も首里の国王を助けた逸話が残されている。
 多和田真助著『門中風土記』から要約して紹介する。
 <首里士族 馬姓(国頭御殿) “忠義”によりとりたてられる
 「御殿(ウドゥン)」といえば、王家の分家たる家柄である。したがって、いくつかある御殿は王家から分かれた門中・尚姓が独占していた。このなかにあって、唯一の例外が馬(ば)姓(国頭御殿)である。
 1571年、三司官の馬順徳は国王・尚元に従い奄美大島へ渡り、同島を征討した。そのとき、国王は重病におちいった。これを深く悲しんだ順徳は、自らが身代わりになることを決意、ひたすら王の回復を神に祈った。その願いは通じ、やがて尚元は元気をとり戻し、沖縄へ帰ることができた。しかし、自らの命を投げ出して尚元の命乞いをした順徳は間もなく帰らぬ人となった。尚元は、馬順徳の忠義にいたく感謝、国頭家を按司家にすることで、この忠臣にこたえた、ということになる。
                    国頭家
                       『琉球家紋系図宝鑑』から 


 これが『球陽』に記された、按司家に取りたてられた経緯である。 
 同御殿の始祖は国頭親方正胤(せいいん)で、唐名を馬思良という。19世に至る同家の系譜をひもとくと、その源は第一尚氏時代の国頭間切に及ぶ。残念なことに、同門中の歴史を記録した家譜は沖縄戦で焼失したが、口碑と最近編纂された家譜によって、その概要がうかがえる。
 それによると、同御殿始祖の正胤の出自は、浦添間切謝名村の奥間大親(ウフヤ)という。
 奥間大親といえば、天女伝説に登場する人物で、大親と天女との間に生れたのが、察度(さっと)王といわれている。大親は察度王のほかに次男・泰期(金満按司)をもうけた。泰期は成人に達した後、国頭間切に行き、そこで鍛冶を普及し、民衆にあがめられた。奥間村の奥間鍛冶屋(カンジャーヤー)がその子孫で、その長男が現在の字奥間の座安家(屋号・東=あがり)の始祖、次男が国頭親方正胤ということだ。

 奥間大親は奥間村に生れたが、ゆえあって謝名村へ出向いた。その後、次男の泰期が家を継ぐために帰郷し、山原の地に鍛冶屋を普及させた。鍛冶職は神職とされ、代々にわたって座安家が継承してきた。
  奥間鍛冶屋は、金丸にとって命の恩人ということになる。やがて王位についた金丸こと尚円は、旧恩を忘れることなく鍛冶屋の息子に官職を与えることになった。長男はそれを固辞して、鍛冶屋を継承、後の座安家となった。次男の正胤は首里に上り、やがて国頭間切総地頭の官職を賜った。これが、国頭殿内の由来で、三世の正格の時に按司家(御殿)となった。
  現在でも、国頭家と座安家の関係は深く、先祖を同じくする絆で固く結ばれている>

 ここでは、泰期が奥間鍛冶屋を営んだことは他の資料と共通するが、それが「成人に達した後」ということと、「家を継ぐために帰郷」したのが山原の地としていることが他の資料とは異なる点である。
 これには少し疑念がある。成人に達した後となれば、泰期は鍛冶屋の後、察度王の使者となって中国を往復し、交易で鉄器を輸入したということになる。沖縄の鉄器の歴史を考えると、当初、鉄器は大和や中国から輸入に頼っていたが、鍛冶の技術も習得し、琉球で鉄器を作るようになった。そう考えるのが自然な流れではないだろうか。とすれば、中国への使者を終えて後、鍛冶屋になったと見る方が合理的である。
                 056.jpg
                       昔の鍛冶風景を描いた絵(奥間鍛冶屋)

 もう一つの疑問は、家を継ぐために帰郷したのが山原としていること。他の資料では、宜野湾謝名村に帰ったと記している。泰期が奥間で鍛冶屋を始めたのが「成人に達した後」が事実なら、まだ父の奥間大親は元気な盛り家を継ぐ必要はない。奥間大親は謝名村に住んでいるのに、家を継ぐため山原にかえるというのもおかしい。
 他の資料で見るように、奥間で鍛冶屋をしていたが、兄の察度は中山王に就いたので、家を継ぐのは泰期となり、奥間から宜野湾謝名村に帰郷したと見るほうが説得力をもつのではないだろうか。
 注目されるのは、泰期・金満按司が奥間で鍛冶を普及し、奥間鍛冶屋はその子孫であり、長男が座安家の始祖、次男が国頭親方正胤としていることである。

 他の資料では、座安家の始祖が元祖奥間鍛冶屋の長男で、次男が国頭親方正胤としているものがある。つまり、これだと長男、次男は泰期の子どもとなる。しかし、最初に見たように、泰期の子どもは一男一女で、二人の男の子がいたことにはなっていない。それに、時代があまりにも離れている。多和田氏は、長男、次男は金満按司の直接の息子とはしていない。ということは、金満按司の後、代を経て座安家、国頭家に継承されていることになる。

 奥間大親、泰期と座安家・国頭家との深いつながりは現代まで続いているという。
 「座安家及び国頭家一門は、奥間大親の在所である真志喜の奥間家と大親のお墓(城の鼻=グスクノハナ)、それに大親の妻の里方にあたる浦添又吉本家を代々崇拝してきている」(国頭村教育委員会資料)
 奥間家は現在、佐喜真姓であり、同家は「奥間大親その当時からの屋敷跡にあり察度王の生誕地である」(『琉球家紋系図宝鑑』)という。
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