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奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(5)、金丸助けた鍛冶屋

 金丸を助けた奥間鍛冶屋
 奥間鍛冶屋をめぐる有名な逸話が、後に尚円王となる金丸を援けたという伝承である。『国頭村史』から見ておきたい。
<金丸(尚円)は、伊平屋諸見(しょみ)の百姓の家に生まれた。村民は彼が水を盗用したと疑い、迫害を加えようとした。妻と弟を携え、難を国頭に避けた。(24歳のときであった) 
国頭では宜名真(ぎなま)に数年間居住していたが、そこでも彼の意思的な行為は住民に受け入れられず、深い憎しみにより殺害される危険さえ生じたので、一時与那覇岳山中に足を留めていた。
 与那覇岳のインツキ屋取に隠れていた金丸は、奥間鍛冶屋(東り、座安家の祖)が猪狩りにかこつけて運ぶ食糧の供給を受けた。金丸は王位についたとき、鍛冶屋の次子を国頭間切の総地頭に任じ、その恩義に報いた。国頭御殿はその後裔で、鍛冶屋の鞴を祀っていた。長男は奥間で家業を継いで鍛冶を行ない、またその家から奥間ノロを出すようになった。>
                かぎやで風節歌碑
            奥間鍛冶屋「アガーリ(根屋)座安家」    

 これによると、金丸を援けたのは、奥間鍛冶屋(座安家の祖)とされている。王位についた時、その次男を首里に取り立てたという。ここでちょっと注意を要するのは、その時代背景である。
 金満按司が国頭奥間村で鍛冶屋を営んだのは兄、察度が中山王だった時代である。察度は1321年生まれで、王位にあったのは1350-1395年である。泰期の生年は不明だが、仮に察度と5~10歳くらい離れていたとしても、中国に派遣されたのは、1372―1382年だから、40-50歳代で使者を勤めたことになる。
 察度王統は尚巴志によって倒され、第一尚氏王統は長くはないが1406-1469年、60年余り続いた。その王統がクーデターで倒され、金丸が王位につき、第二尚氏王統を開いたのは1469年である。
 金丸は1415年生まれで、国頭に逃れたのは24歳のときである。1441年、27歳で首里に出たというから、奥間にいたのはその間である。
 金丸が国頭に滞在した間は、第一尚氏の時代である。金満按司が鍛冶屋を営んだ頃とは、60年以上の年代の開きがある。このことは、奥間鍛冶屋の系譜を見る上で見逃せない問題がある。あとから検討したい。
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