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奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(4)、金満按司

 奥間鍛冶屋の始祖、金満按司
 次に、按司時代の国頭村、国頭按司について、『国頭村史』から見ておきたい。
  <国頭按司の始祖及び発生期は不明である。部落間における統一の過程を経て、ある部落の根人が現在の大宜味村を含む地域の支配者になったのであろうが、物語の上では尚円王の15世紀後半になっている。
  本村奥間の鍛冶屋すなわち東(あが)りは、奥間最古の家で約700年前の成立といわれている。同家は浦添間切謝名村で鍛冶をしていたと伝えられる奥間大親(うひやー)の二男に始まっている。長男の察度は1349年王統を樹立するが、二男の金万(かねまん)は国頭間切奥間に下り、ここで鍛冶屋業を行なった。これが奥間鍛冶屋の祖である。後に金丸(尚円王)が伊平屋から宜名真(ぎなま)に遁れ、さらに与那覇嶽麓の屋取(やどり)に隠遁したとき、食糧を運んで援けたのはこの子孫であった。その功により同家の二男系が国頭総地頭に任ぜられ(長男は固辞して鍛冶職を世襲)、ついでその4代目が国頭按司に任ぜられた。これが馬姓国頭家であり、王族以外の者で、明治時代まで残った唯一の按司といわれている。…
かなりの粉飾があるようであるが、一方では物語を成立させる要素も豊富である。>
                 宜名真
                    金丸が遁れたとの伝承がある国頭村宜名真
 『国頭村史』は、時代背景と奥間鍛冶屋・国頭按司について次のようにまとめている(要旨)。
 第一に、察度は日本商船のもたらした鉄塊を買い取り、これで農具を製造して百姓たちに与えた人であるから、その父奥間大親と鍛冶の物語は、この辺から創作された可能性がある。事実、そのころは、沖縄の鉄器輸入期であった。
 第二に、奥間大親と国頭間切奥間との呼称の一致である。奥間のまく名は「かねまん」で、そこの根所となった祖名の金万と一致している。金万がまく名「金万」を負ったとみられる。
何故金万が奥間に下ったか、その理由も不明である。兄の察度が天下を支配するのであるから、鍛冶業は軍事的・政治的・経済的方面から重要度が増大したに相違ない。
 第三に、国頭按司の最初は馬似竜(国頭正教)である。16世紀半ばころに、国頭按司の出現をみたことになる。 
              053.jpg
               奥間鍛冶屋。中に昔の鍛冶屋の情景を描いた絵がある
 第四に、国頭按司のことは馬似竜以前にもみえている。国頭按司は北山が統一される過程において、北山王に服従を余儀なくされた。それが尚巴志の北山攻略に際しては巴志に内応して、北山を滅亡に導いた。これが馬姓国頭按司と同系のものであるかそれは不明である。
  おそらく国頭按司は按司発生期のころからの国頭の領主であり、それが馬似竜に至って身分上の公的按司に任命されたのであろう。

 ここで「まく名」と言っているのは、『国頭村史』によると、昔は部落のことをマクと称した。国頭村は旧部落のマク名は、浜は「ゆあげまく」、辺土名は「いちぶくのまく」、奥間は「かねまんまく」と呼んだという。つまり、奥間で金満按司が鍛冶屋を始め代々受け継がれてきたことが、このまく名の由来となっているのだろう。
  『国頭村史』は、「浦添間切謝名村で鍛冶をしていたと伝えられる奥間大親(うひやー)」と記しており、奥間大親自身が先に謝名村で鍛冶屋をしていたと説明しているのは、興味深い。
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