レキオ島唄アッチャー

奥間鍛冶屋の伝承をめぐって(3)、泰期

 中国・大和を往復した弟、泰期
 察度は天女との子とされているが、金満按司はそうではない。謝名村又吉の女との子であり、異母兄弟であることがわかる。
金満按司は、中国・大和を往復した泰期と同一人物とされる。
 1372年に初めて中国(明)の皇帝の使者が皇帝の詔書をもたらしたので、中山王となっていた察度は、弟、泰期を遣わして臣と称し、表貢を奉った。これが琉球と中国の通交の始まりである。泰期はその後、兄察度王の使者として、1382年までに合計5回も中国に往復した。琉球からは主として馬と硫鉱を、中国からは主として多量の陶器と鉄器(鍋・釜等)を持ち帰った。この中国の通交が、琉球の貿易・産業・経済・文化に与えた影響はとても大きかった。

 この泰期・金満按司が国頭奥間村に鍛冶屋を始めた始祖であるという。しかし、その後父の相続のため、国頭奥間村を離れ、宜野湾真志喜村に帰郷したという。このことは、金満按司は奥間で終生、鍛冶屋を営んだのではなく、誰かが後を継いだことになる。だれが奥間鍛冶屋の後を継いだのかは不明である。
  子どもは一男一女をもうけたとあるが、その氏名は記されていない。
                泰期(3)
                         読谷村残波岬にある泰期像
 もう一人の奥間親方・大親
 『琉球祖先宝鑑』からの紹介に戻る。
奥間親方
 母は国頭比地村安佐慶の女子也。其長男奥間大親在所は同奥間根屋東りと言ふ家也其長男国頭親方二男源川大主三男平良大屋子国頭親方は唐大和往復せられて後首里に登る

  この奥間親方も長男は奥間大親と言うが、並里按司の孫、辺士名里主の子である奥間大親とは別人物である。奥間大親が二人いるからややこしくなる。
 しかし、在所が奥間根屋東(あが)りといえば、奥間鍛冶屋である。根屋とは集落の古い本家を意味する。この奥間大親の長男は国頭親方であり、「唐大和往復せられて後首里に登る」となっている。あとから紹介する予定だが、奥間鍛冶屋を元祖とする座安家と国頭家は、長男が鍛冶屋を継ぎ、次男の国頭親方正胤が後に首里王府に取り立てられ首里に上ったことで知られる。長男か次男かの違いを除けば、一致するところがある。はたしてこの奥間親方とその子どもが奥間鍛冶屋に深いかかわりがあるのだろうか。
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