レキオ島唄アッチャー

八重山の織物・芭蕉布、その2

 身分に応じて定められた衣服
 同じ芭蕉布でも、身分によって違いがあったという。
「琉球王国では公の場で着る朝服(官服)、婚礼衣裳、喪服、神衣裳など にも芭蕉が利用されていた。身分によって使用する繊維の太さが違い、王族は幹の中心 部に近い上質で細く柔らかな繊維で織られた芭蕉布を着用していた」(県立博物館貴重資料デジタル書庫から「代表的な沖縄の織物 芭蕉布」)。

 八重山では、王府時代に身分に応じて着用する衣服の定めがあった。
一、頭は、冬は一二升(よみ)以下の木綿布、夏は一五升以下の苧布を着用し、緞子(どんす)以下の大帯・細帯・懸子はかまわない。
一、首里大屋子・惣横目は、冬は一一升(以下の木綿布、夏は一四升以下の苧布を着用し、緞子(どんす)以下の大帯・懸子はかまわない。細帯に絹布をもちいることは禁止する。 
一、与人(ゆんちゅ)以下奉公人の位衆ならびに蔵筆者・目差は、冬は一一升以下の木綿布、夏は一四升以下の苧布を着用すること(以下略)
 (『富川親方八重山島規模帳』、『石垣市史 民俗上』から)

              芭蕉布の歌碑
           大宜味村喜如嘉にある「芭蕉布」の歌碑。こちらは山之口獏の詩である。
 
 このように、王府時代には、身分に応じた細々とした服装の規定がなされていた。それに、百姓は、バソーキィン(芭蕉衣=ばしょうきぬ=。芭蕉の繊維で織った布。古くから織られ、広く利用された衣)二枚までという制限があったといわれている。
 明治時代になっても、そのような状態がみられたが、明治12年(1879)の廃藩置県以降は、服装の制限も自然に解消されていった。それでも、一般農民は、夏でも冬でもバソー(りゅうきゅうばしょう。糸芭蕉)で作った粗末な短い着物を着け(ママ)、裸足で農作業をし、生活をしていた。そのため、真冬に農民が畑に行く途中で、凍死寸前という状態に陥り大騒ぎになったこともあったといわれる(『登野城村の歴史と民俗』、『石垣市史 民俗上』から)

 身分によって厳格な差別をつけている。百姓は、芭蕉衣もわずか2枚という制限があり、明治になっても粗末な衣装で暮らしていたことがうかがえる。

 芭蕉の栽培をすすめた首里王府
 八重山でどのように芭蕉の栽培や芭蕉布の製作がすすめられたのか、改めて首里王府の史料から見ておきたい。
 八重山在番と首里王府との往復文書集『参遣状抜書』(下巻)には次の記述がある。
    覚
一、芭蕉苧
一、煮引苧
 芭蕉苧は、手広く栽培し、しっかりと船具の役に立てるよう、去る寅年(1746)に申し渡しておいたところ、このたび、試しにおくってきたので、上申したところ製法も相応し良かったとお考えになっている。いよいよ、これから流布させるよう、仰せ付けられた。このことを申し渡す。以上
 巳(1749)10月26日 浜川親雲上 末吉親方
 八重山島在
                    喜如嘉の芭蕉布
                        喜如嘉の芭蕉布
 芭蕉苧を手広く栽培し、衣服だけでなく荒縄など船具の用途でも使われていたことがわかる。

 『翁長親方八重山島規模帳』(1857年)には、次のような記述がある。
一、木綿花は御用布・御用物としてはもちろん、日常の衣類としても欠くことのできないもので、栽培には念を入れなくてはならず、以前からいろいろ言って来たが、収穫高が少なく、必要に迫られてから高値で買入れ入用に当て、穀物の消費も少なくないのは、あってはならないことである。以後は手広く作り立て、手入れも念を入りにし、公私の需要に差し支えのないよう取り締まること。
一、芭蕉苧ならびにシュロ・クロツグは、衣類や他船の縄具そのほか、島の生活になくてはならないものでありそれぞれ植樹については人数によって本数を定めていたが、植付けが少なくて品物が不足し、買って用を足している所もあるというが、いかがなものであろうか。今後は規則どおりに植付けさせ、それぞれ差し支えなく需要をみたすことができるよう取り締まること。
一、与那国島では、唐苧・藍・木綿花・芭蕉苧の栽培が少なく、御用布の調整や島用などに不自由しているというのは問題であろう。石原親雲上が御使者の時に仰せ渡されたとおり、それぞれ正頭(注・租税負担者)一人の坪数を決めて作らせ、毎年その結果を報告するように申し渡すこと。
 
 木綿花に続いて芭蕉苧の栽培を勧めようとしている。衣類や船具ほか、島の生活に不可欠であり、植付本数まで定めていたのに、植付が少なく品物が少ない実情にあることがわかる。
 なかでも与那国島は、栽培が少なく「御用布の調整や島用などに不自由している」として、一人一人の栽培坪数を決めて栽培させ、その結果を報告するように求めている。

 木綿花や芭蕉苧などの栽培を推進しても、必ずしも望ましい結果をもたらしてないのか、それから14年後の『富川親方八重山島規模帳』(1874年)でも、同様の指示を繰り返している。
一、木綿花は御用布・御用物ならびに衣類の織り調えにも欠くことのできないものなので、十分手広く栽培し「農務帳」のとおり手入れには念を入れ、公私の用の分を生産し、差し支えないようにするように指導すべきこと。
一、芭蕉苧ならびにシュロ・クロツグは、衣類ならびに縄具その他、島の生活になくてはならないものなので、「農務帳」のとおり栽培に念を入れ、それぞれ差し支えないようにするよう指示すべきこと、
一、与那国島では唐苧・藍・木綿花・芭蕉苧の栽培が少なく、御用布の織り調えや島用などに不自由しているというので、正頭一人の坪数を決めて栽培させ、毎年その結果を報告するように以前に仰せ渡したが、今もって不注意の様子という。どうかと思うので、必ず手入れかたがた指示をして作らせ、用いるものに差し支えないように指導を申し渡すべきこと。

 <糸芭蕉は沖縄の気候に適していたためよく育ち、沖縄各地で栽培され、織物用の糸として利用された。 戦前は喜如嘉(山原)、今帰仁、首里(煮綛芭蕉)、竹富島、小浜島、与那国島などの芭蕉に特徴がある。 芭蕉は着ごこちがよく王族から庶民まで幅広く着用されていた(県立博物館貴重資料デジタル書庫から「代表的な沖縄の織物 芭蕉布」)>
 
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