レキオ島唄アッチャー

八重山の織物・芭蕉布、その1

八重山の織物・芭蕉布

 八重山の織物といえば、人頭税の時代は、織物の貢納で女性たちが苦労を強いられたことで知られる。八重山上布が有名だがそれだけでなく、木綿布や芭蕉布も織り、納めていた。沖縄県立芸大附属研究所の文化講座「八重山の歴史と文化」なかで、織物作家の新垣幸子さんの「八重山の織物」についての講座を聞くことができた。
 個人的に一番興味があったのは、芭蕉布についてである。沖縄民謡で人気のある「芭蕉布」は、その歌詞のなかに「上納ささげた芭蕉布」という文言がある。沖縄本島でも、喜如嘉(大宜味村)など有名な芭蕉布の産地があるけれど、王府の時代に芭蕉布がどこからどのように貢納されていたのか、よくわからなかった。

 上布の代納として芭蕉布を上納
 はじめに新垣さんの作成されたレジュメとお話しから、その一部を紹介する。
 糸芭蕉は南方貿易により1300年代から1400年代にかけて伝来し、その後各地に広まったと推測されている。高温多湿の沖縄で好まれ、国王をはじめ高官から庶民まで着用した。
 1699年、木綿花、木綿布と同じように、芭蕉苧(う、繊維)として上布の代納として上納された。
 1746年、文書に見る芭蕉布の織り始めは、黒島仁屋が芭蕉の製法を学び、島の女性たちに教えるが、まだ習得していない様子が見える。さらに3年を経ても見本の芭蕉布が首里王府に送られていないことが見える。芭蕉苧(衣類用)、煮引苧(船具用)などの製法はよかったことなどが見える。
 1874年、「富川親方八重山諸島農務帳」には、芭蕉の栽培、製紙の方法が記されているが、植付面積など厳しい定めはなく、重要な上布や木綿布織に支障がないよう、庶民の衣類と原料を納めるだけに止められている。
 他に1731年、石垣、古見、西表の3か所に芭蕉紙をすく紙漉所があった。
1903年、人頭税廃止を境に苧麻や綿花は下降気味に対して芭蕉苧はむしろ急激に増産している。

 ここでは、芭蕉布は高温多湿の沖縄に適した織物として好まれ、首里王府の高官から庶民まで着用したことや、八重山上布の代納として上納されたことが明らかにされている。
                 
薩摩に3000反納める
 戦前、5次に渡り沖縄調査を行い、資料を収集し、膨大な写真、ノート類を残した鎌倉芳太郎氏は、織工芸にも関心を持って八重山の芭蕉布についても記述している。
 「明初中国に通じた時の琉球の貢物中に生熱夏布の名があるが、これは芭蕉布のことで、熱夏布は練芭蕉布のことであろう」
「男子の王宮内の正装衣料は芭蕉布で、正従一品の按司部(御殿家)のものは青緑色、正従二品の三司官(殿内家)以下のものは黒色で、黒の朝衣を略して『黒ちょう』と呼んだ。この古式の礼装から考えると、芭蕉布こそは沖縄固有の織物で、往古から自然に発達してきたものであろう」
 「慶長の役後、尚寧王が島津家久に伴われて、鹿児島を発し駿府に到り家康に謁した時の献上物を見ると、琉球土産のものとしては太平布200端、蕉布100巻を献じている。更に江戸に到り将軍秀忠に謁した時にも、太平布200匹、蕉布100巻、また儲君(注・皇太子、世継ぎ?)に太平布100匹、蕉布50巻を献じている。太平布は宮古上布、蕉布は芭蕉布のことである」

 慶長16年=1611年の「琉球国知行目録」に、次の記述がある。
 「琉球国諸島ヨリ毎年可ㇾ被ニ相納一物数ノ目録
 芭蕉布、3000反、上布6000反、下布壱万反(略)
 これで見ると、当時の琉球国全体の経済上、芭蕉布、上布、下布の占める比率は極めて大き(い)」
 「芭蕉布は人頭税貢納布ではなかったので、余り記録が伝わっていない。しかし一国統制経済の機構による政治が行われていたので、その指導についても手ぬかりがあろう筈がない」として、咸豊7年(1857年)の『八重山島農務帳』に「芭蕉植付様之事」の記述があることを紹介している(『沖縄文化の遺宝』の「宮古島、八重山島の芭蕉布と麻織物の歴史」)。

 ここでは、芭蕉布が王府の正装衣料として用いられたことや、薩摩支配下で芭蕉布が3000反も貢納品として送られたことが明らかにされている。
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