レキオ島唄アッチャー

沖縄戦の戦跡を訪ねて、石垣島の戦跡

 石垣島の戦跡
 石垣島をはじめ八重山地方は、連合軍が直接、上陸による地上戦はなかったが、米軍機の空襲やイギリス艦船による艦砲射撃などで、戦争被害を受けてきた。それだけではなく、戦争マラリアで3000人を超える死者を出すという悲劇があったことで知られる。
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 石垣のバンナ岳のふもとに広がるバンナ公園に行くと「八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑」があった。沖縄戦の末期、日本軍の作戦展開の必要性から住民が悪性マラリアの有病地域である石垣島、西表島の山間部への避難を強いられ、過酷な生活の中で相次いでマラリアに罹患し、三千余名が終戦前後に無念の死を遂げるにいたった。
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 戦時中、石垣島で日本軍は、3つの飛行場を建設し、石垣島を中心に各地に陣地を築き、約一万人もの兵隊が配置されていたという。
 「住民の多くがマラリアのはびこる山岳地帯に強制的に避難させられたため、その半数余がマラリアにかかり、3647人(人口の11%)が死亡した。とくに波照間島の被害は大きく、全人口の三分の一がマラリアで亡くなったといわれる」(新城俊昭著『琉球・沖縄史』)。
 この慰霊の碑は、国が県に行った八重山地域マラリア死没者慰藉事業の一環として一九九七年に建立された。遺族が思いを込めて御霊(ミタマ)の名を小石に記して納めてあるという。
 「その悲惨さを後世に伝え、世界恒久平和創造への礎となることを願う」。当時の大田昌秀知事の名前で、こう刻まれている。
 意外なところで戦争の痕跡を見た。それは沖縄気象台である。
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ここには、岩崎卓爾氏の銅像がある。岩崎は、かつて新設された石垣島測候所に明治31年(1898)赴任し、「テンブンヤヌウシュマイ」(天文屋の御主前)と呼ばれ親しまれた。
 岩崎は、人生の大半を台風の最前線で気象業務に従事し、科学的な気象の普及に努め、島の人々の生命を守ってきた。気象の延長として、八重山の自然生態への強い関心を持ち、氏が中央へ報告し、新発見となったものはイワサキコノハチョウなど十数種類に及ぶ動植物がある。八重山の歴史や民俗に対しても強い関心を持ち、いくつもの著作がある。68歳で死ぬまで40年近くを、石垣島で暮らした。
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 この像を見た後、この近くに戦争の弾痕が残る場所があるというので、連れ合いが気象台に尋ねていった。すると、大震災で忙しいにもかかわらず、職員が来て説明してくれた。「実はこの岩崎さんの像にも弾痕があるんですよ」と言う。像をなめるように見ていて「ここです」と指さしてくれた。
 背中の左上の丸く削れたような跡が、弾痕である。この像は、戦争前に建立されたものだ。石垣には連合軍は上陸しなかったが、米軍機からの銃撃によるものだろう。
 もともとは、この近くにある弾痕のことを尋ねた。「それは気象台の敷地内にあった倉庫のことです。弾痕がありますが、現在は石垣港に近い新栄公園に移されています。そちらに行けば見えますよ」と親切に教えてくれた。
 さっそく新栄公園に向かった。公園は、なんと平和に関わる碑文などが集中する場所だった。
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倉庫の一部が置かれていた。なるほどコンクリートが大きくえぐられている。しかし、説明文が何もないので、知らない人が見ると、これが戦争の弾痕だとは気付かないだろう。
この弾痕のコンクリートが置かれたすぐそばには、「戦争の放棄」と大書された碑があった。憲法9条の条文が刻まれている。9条の会が建立したものだ。それにしても、大きくて立派な碑である。
 裏に回ると、鳩の姿が刻印されていた。
「戦争の放棄」の碑はとても立派なもので驚いた。公園内にはさらに、平和の鐘が二つもあった。なぜ二つのあるのかよく分からない。
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 石垣島に、防衛省は自衛隊の配備を企図している。でも、戦争マラリアは、島に日本軍が駐留していたため、軍によって引き起こされた犠牲である。軍隊が住民を守らない、逆に3000人以上の尊い命を犠牲にした実例がここにもある。住民が自衛隊の派遣に反対するのは当然である。
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