レキオ島唄アッチャー

八重山芸能と舞踊、その4 「勤王流」

 勤王流とは何か
 「八重山の舞踊に一つの大きな流れをつくっている」(喜舎場永珣)といわれる舞踊の流派に「勤王流」がある。 
勤王流とは「八重山舞踊の一派。諸見里秀思が『勤王流二十二手振本』と称する扇子舞基本型付書を入手し、八重山在来の舞踊や創作に活用、完成したいくつかの舞踊を継承保持している舞踊集団。<勤王>は大和世における忠君愛国の風潮にならった命名と推察される」(『沖縄大百科事典』から)
 
 喜舎場永珣氏は、勤王流について次のようにのべている。
 <八重山の舞踊にさらに大きな幅を持たせ、旧藩時代頃から近代の明治期にかけて琉球様式を取り入れて創作された舞踊家に比屋根安粥(アンシュク)氏とその弟子の諸見里秀恩氏の両人がいた。
 比屋根翁が舞踊の秘本を諸見里氏に譲与された時、「此の本は琉球にたった1冊しかないものであるから、必ず大切にして是非その極意を会得するように」との遺言をされたとの事であった。その時比屋根翁がこの古記録を「勤王流」と命名して手渡したとのことである。八重山は勿論のこと沖縄本島に於いてもこの勤王流なる名称は諸文献には見当たらない。
 原本は和紙に立派な墨絵で持って勤王流22手と書かれていた(「八重山芸能と勤王流」、『八重山民俗誌下』)。>
 喜舎場氏は、比屋根安粥は36歳(1857年)、尚泰冊封の冠船芸能の指南役を仰せつかったが、1859年、鳩間島に流罪となった。そのとき秘本を持参。10数年後、赦免となったが首里へ戻らず、鳩間から古見(西表島)、黒島へと移り、諸見里秀恩とあい、秘本を譲渡したとする。
 
 これに対し、宮良賢貞氏は異なる見解をとる。名前も比屋根安弼(アンヒツ)とし、19歳(1854年)のとき、納殿筆者となり若里之子に叙せられた。1880年、波照間島へ流罪となり、その後古見で免罪となり、黒島へ移住。比屋根の長男の家族が黒島へ移住したとき、『勤皇流手振型本』を持参。諸見里は安弼の死後、長男の妻からこの本を借用し、八重山舞踊に活用した。安弼が諸見里に教えたのは組踊「忠孝婦人」のみで冠船芸能は教えていないとのべている(この項、大城學氏「八重山の古典芸能」講演資料から)。
 二人の見解はあまりにも事実関係が違い過ぎる。ただし、重要なことは、首里生まれで王府の役人をつとめ、訳あって八重山に流罪になった比屋根が、首里王府の琉球芸能を八重山に伝えたこと、とくに諸見里秀思が勤王流の秘本を譲渡され、または借用して八重山舞踊に活用したことは確認できることである。
                   
                     「まんのーま節」(記事とは関係ありません)
 八重山の舞踊創作
 こうしたもとで、八重山における舞踊が創作されていった。喜舎場氏は次のようにのべている。
<八重山における舞踊の誕生は比屋根安粥翁やその弟子の諸見里秀恩氏等によって先ず成された。ことに比屋根翁の創作によるものが幾つかあって、その頃から八重山歌による舞踊の振付けが次々に成されて行ったのであった。即ち旧藩時代から廃藩置県頃がその端緒期である。以来明治時代から大正期にかけて新政執行に伴いのびのびした島人等は、旧来の政令もなくなったことがより一層舞踊の誕生を促進したのであった。
 比屋根翁による振付けは、有名な女踊りの「鳩間節」がある。また「古見の浦節」を舞踊化し、古見村の隣の高那村の依頼によって創作した「高那節」(一名ザンザブロウー節)などがある。黒島に移住してからは、同翁の指導のもとに諸見里秀恩氏と共に振付けられたものに有名なる「黒島口説」があり、其の外独特な「山崎のアブジャーマ」や「ベンガントゥレー」などがあった。

 諸見里氏によって振付けられた舞踊も数多い。
何より有名な踊りは「赤馬節」の踊りである。さらに「柳天川の鴛鴦(おしどりのこと)の舞」があり、更に「仲良田」「揚古見の浦」「鶴亀節」など同氏によって次々と振付けられた。
 この様に八重山における舞踊の誕生は比屋根翁から諸見里氏に至って次々と創作されて誕生したのであるが、その芸脉は諸見里氏によって花が咲き実を結び、そして渡慶次長智氏へと引き継がれて現今に至ったのであった。
 弟子たちによって次々と改悪され、現今のものは古典とは名ばかり称する大いに変遷改悪せられていることは何といっても残念でならない。>
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