レキオ島唄アッチャー

八重山芸能と舞踊、その3

 八重山舞踊の変遷
 大田静男氏は、八重山舞踊の変遷について、次のようにのべている。
 <八重山の士族にとって、首里王府との関係上、学問のことは当然ながら大和芸能や宮廷芸能は教養として奨励された。この「覚」(『羽地仕置』のこと)の令達された17世紀こそ、八重山の芸能が祭祀の場での単調な手振りをくりかえす踊りや、労働歌などの世界から、格調ある芸能を生み出す胎動期ではなかったか。
 八重山に三絃がいつ頃伝来したかは不明だが、おそらく16世紀半ばに王府役人達によってもたされたことであろう。17世紀末には、三絃をともなう節歌は宮廷音楽の影響を受け、労働歌の抑揚やハヤシ部分を削除整理し確立していたと思われる。
 沖縄の工工四や琉歌集には当時すでに八重山の節名がみている。
 八重山の曲節は沖縄の芸能家に愛好されているが、八重山の曲節への振付もされた。
 八重山節歌の曲想がかわれ、中には「八重山音楽先師顕彰碑」に名を連ねる当銘仁屋由教のように所望され上国し、首里の役人達へ八重山節歌を伝授した者もいた(『八重山の芸能』)。>
                 
 森田孫栄氏は、八重山にはかなり古くから王府の冠船舞踊の影響を受けない芸能があったとのべている。
<本来の八重山舞踊が、御冠船系の舞踊にみられない型や所作のありようなどからして相当古く、御冠船舞踊の影響を蒙らない芸能が存在していたとみるべきでしょう。舞踊のおける序破急の方則で進められる出羽、中踊、入羽の形式も、八重山も沖縄本島同様に本土から直接な伝播をうけたものだと一部の学者達は考証しており、本土の風流系の踊りがかつて古い時代八重山でも踊られていて、現在でもその手振りの古拙が残っていると考えられています(『八重山芸能文化論』)。>

 大田静男氏は「八重山古典芸能は近世後期に宮廷芸能の影響を受けて確立した」としながら、次のようにのべている。
 <しかし、一方的に受容接種するだけでなく、中央の芸能に浸透する相互関係にあった。明治12年(1879)の廃藩置県は、その関係を一層深めるものであった。
 王府の崩壊によって宮廷芸能者達は禄を失い、生計のため座を組織し思案橋や辻道端で宮廷芸能を上演した。これら座(芝居)の地方巡行や都落ちした士族達によって宮廷芸能や創作されたばかりの雑踊りが地方へ伝えられた。
 八重山では明治27年(1894)に沖縄芝居の興業がなされ、また、43年(1910)には渡嘉敷守良の明治座が公演をした。絢爛豪華な組躍や舞踊に島の人々は目を奪われたという。
 役者の中には、八重山に定住する者も多かった(『八重山の芸能』)。>
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