レキオ島唄アッチャー

八重山芸能と舞踊、その2

 琉球文化の八重山への伝播
 喜舎場永珣氏は、芸能の「琉球様式の伝入を促進したのは蔵元(王府の行政庁)の在番(蔵元の長)制度であった」として次のようにのべている。
<奉行及び在番筆者等が首里王府から派遣せられて来島し、駐在したことは琉球文化が八重山に伝播する大きな素因をつくった。一方また八重山の蔵元政庁の役人等も毎年春秋の2季はもとより年によって3回も4回も上国することがあって、沖縄本島の芸能文化が大いに伝来した最も大きな素地となった。八重山からの上国役人の随行者には歌舞音曲に極めて堪能なる士が選ばれていた。上国時には舞踊や音楽などの習得伝授に務めていた。>
 
 喜舎場氏はさらに、「従来の島内文化と外来文化を接触融合せしめ、いちはやく咀嚼消化して琉球舞踊の八重山化を図り、後世において続々と創作が成された」とのべたうえで、その事を促進したのは次のような節時であったと指摘している。
 「御祝上げ」
 琉球国王竝びに王妃の御生年の御祝賀のお祝いで、13年毎に催しされた。この時踊られる舞踊は一切八重山の踊りは禁止され、すべて琉球舞踊のみを以って演じられる規定となっていた。
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               那覇市民会館で行われた芸能祭から(記事とは関係ありません)
 「御冠船踊」
 事前に八重山の蔵元などにも冊封時(中国から派遣された冊封使が琉球国王を認証する)には布達があって、八重山でも祝っていた。これを八重山では「冊封祝儀」と称して祝い上げた。普通の祝いと異なる点は琉球舞踊の他にも大和芸能を催し、謡曲・狂言・能などが演じられていた。

 「親廻踊」
 蔵元政庁の在番が3年に一度その任期を交替する折、民情視察と称し、蔵元の管内各島村を巡視することを言う。その時役人の頭以下諸役人等を随行員として同伴せしめるが、この親廻りの時に歓待は管内の各島村に置いてはそれこそ最も大きい行事の一つであった。
 
 以上の折節には約半年も前から準備が行なわれる事があり、ことに「親廻」の時などには各島村において踊りの上手な者が選定され、昼夜兼行の練習をしていたと伝えられている。各村においてはその「親廻踊」に」出場したことが何よりの名誉とされ、それが在る面に於いて技を競い、芸能の発展に幾分か寄与したことは否定出来ない。
 八重山における舞踊の成立は、往古よりすでに成立していたかの如く考える人もいるがじつはそうではない。
 あくまで近世期においてその成立をみたのであった。近世期もむしろ中葉頃から後末期にかけての頃に成立したのではないかと考えている(『八重山民俗誌下』)。
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