レキオ島唄アッチャー

八重山芸能と舞踊、その1

八重山芸能と舞踊

 これまであまり八重山舞踊を見る機会がなかったけれど、先ごろ八重山の芸能祭を見た。八重山舞踊といっても、素人目には沖縄本島の琉球古典舞踊ととても似た舞踊が多かった。八重山の庶民的な舞踊は見られなかった。なぜ、八重山ではこんなに首里王府の宮廷舞踊の流れを汲む舞踊が盛んなのだろうか、とても不思議な感じをもった。それに、八重山舞踊には「勤王流」というあまり沖縄らしくない名前の流派がある。なぜこういう名称の流派があるのだろうか、それもよくわからないままだった。
 先日、八重山の古典芸能について話を聞く機会があった。もう少し深く知りたいと思い、八重山舞踊についての研究者の著書を読んでみた。そこで学んだことをスケッチ的に紹介しておきたい。

祭式舞踊と琉球式舞踊
そもそも八重山の舞踊とはどういうものがあるのだろうか。喜舎場永珣氏によると、八重山の舞踊は大別すると、一応二通りの舞踊があるという。以下『八重山民俗誌下』抜き書きである。
<その一は往古からの祭式舞踊の流れをくむもので、他の一つは近世に至って琉球本島からの伝来とその影響をうけたいわゆる琉球式舞踊と称せられるものである。
 祭式舞踊は、土着の素朴そのもので、舞踊以前の発生期の舞踊と称すべきもの。八重山の島人達に始めて火食の道を教えた「イリキヤ、アマリ(天降)」という神を祭った際に盛んに行われたといわれる裸舞などがそれに相当する。宗教的な祭式舞踊は未だ農民の社会と強く結びついて今日に至るまで保存せられているのである。それは豊年祭の時の舞踊であり、盆祭のときの「アンガマ舞い」であったり、シティ(節)舞い、種子取舞い、結願舞い、家屋新地落成時の舞いなどであるが、これ等は今日まで保存され、古代の遺物というべきものである。
             
                        赤馬節
 一方、後者の琉球式舞踊は、八重山が中山(琉球の三山時代の一国)に入貢して以来、遂には漸次琉球政庁の方からその伝来と影響を受けた舞踊で、政策的なものもそこには内在するのであるが、いずれにせよある種の型にはまったものであが故に、従来までの自由奔放な円陣舞踊になれていた島人たちにとっては如何にも窮屈なものであったと思われる。しかし、月日の立つ(ママ)にしたがって、ようやくこれ等を咀嚼し、趣味も覚えるようになり、士族の男子達はこの琉球式舞踊を専門とするようになったのであるが、士族の婦女子等は踊ることも歌うことも禁ぜられていたのであった。ところが農民の乙女等は純な祭式舞踊を踊るかたわら時にはこの琉球式舞踊を踊る重荷を負わせられていたのである(「琉球八重山の音楽と舞踊」)。>

 <祭式舞踊の多くは「巻踊り」といって円陣舞踊のように考えられ、そして島ごとに独特の様式があって面白い。これが八重山の純粋の古式舞踊である。
 琉球式舞踊が八重山に伝えられた年代は文献の徴すべきものがないから不明だが、元中7年に八重山が、琉球入貢した以後か、それとも寛永9年(1632)に、八重山の在番制度が設けられた頃であったか、判明しないが、琉球王府は、八重山が琉球の宝庫であることを知って、自分達が島津氏への貢物を軽減するには、この宝庫を開拓する如くはないと、琉球化に力を注いだのであった。その一策として、八重山の島人が歌舞を好むのにつけ入って、宮廷風舞踊を移し、島人はそうした政策とも知らずに、ただ歓迎して習い覚えたので、今も盛んに行なわれているのである(「八重山の民謡と踊り」、『八重山民俗誌下』)。>
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