レキオ島唄アッチャー

稲・粟を歌った八重山民謡

 稲・粟を歌った八重山民謡から
 八重山古典民謡のなかで稲粟を歌って典型的な曲を見ておきたい。
 八重山では古くから、八重山の島々を野国島(ヌングン島)、田国島(タングン島)とふたつに分けていたといわれる。山のある石垣島や西表島は田国島、隆起サンゴからなる、その他の島々(竹富島、黒島、新城島、鳩間島、波照間島が相当する)は野国島である。
 田国島とは、文字通り水田がある島々である。だからといって水田ばかりではなく、畑地も広い。稲と共に粟など農作物が作られていた。

 白保節
 石垣島白保で歌われる「白保節」では、稲と粟が歌われる。
♪白保村上なか 弥勒世(ミルクユ)ば給(タボ)られ 
ユラティクユラティク ブドゥリアスバ(以下ハヤシ略)
♪稲粟ぬなをりや 常(チゥニ)ゆいん まきらし
♪首里加那志 貢(ミムヌ)御残いぬ稲粟や
♪泡盛ん生らしょり うんしゃぐ(御神酒)ん造りようり
 歌意は次の通り。
♪白保村に 豊年を賜りました
♪稲粟の稔り具合は 例年にも増して豊作でした
♪首里王様への年貢を納めて その余剰の稲粟で
♪泡盛も仕込み 御神酒も醸造しました
 ここでは、稲・粟が豊作になったことを喜び、王府への年貢を上納して、更にその残りで泡盛を作ろうと歌う。 
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                      石垣島白保の海岸
 「夜雨節」
 珊瑚礁でできた水田がない島では、西表島や石垣島に舟で通って稲を作ったといわれる。通耕する場合も、米だけでなく、畑で粟も作った。また、住んでいる島の畑地では、粟など農作物を作ったそうだ。
 最南端の島、波照間島からは西表島に通耕していた。
 波照間島は、「かつての島の農耕は主食であった粟作が中心であった。そして17世紀の琉球王府による人頭税政策開始後は上納品(物納税)としての稲作が強制されていたため、米の豊作への願いもとりわけ切実であった」(「波照間島あれこれ」HPから)という。
 神行事も、粟作儀礼をベースにおき、「あとから稲作儀礼が加わった形」となっている。島には「上納用の水田(カネーズ)」があったそうだ(同HP)。
 
 波照間島に由来する「夜雨(ユルアミ)節」では、次のように歌われている。
 ♪夜雨ぬ降る年 世果報年(ユガフドゥシ)でーむぬ
 ♪稲粟ん稔(ナヲ)らし 麦豆ん実(ミキ)らし 
 ♪御主年貢 積ん上げー 御残りぬ稲粟
 ♪泡盛ん生(マ)らしょうーり 御神酒(ウンシャグ)ん造りょーり
 ♪弥勒世(ミルクユ)ぬしるし 夜昼(ユルブィルィ)ん酒盛るぃ
  歌意は次の通り。
 ♪夜の間に雨がよく降る年は 豊年である
 ♪稲も粟も稔らせ 麦も豆類も実らせ 
 ♪国王様への年貢は積み上げて置き 上納分のお残りで 稲粟で 
 ♪泡盛も醸造し お神酒も製造した
 ♪平和で豊かな世のしるしだ 夜も昼も酒盛りして祝おう 
 ここでは、稲・粟に加えて麦と豆類も作り実った様子がうかがえる。
 
 「鳩間節」
 やはり水田のない鳩間島からは、西表島に通耕していた。喜舎場永珣著『八重山民謡誌』は、次のように指摘している。
 「鳩間島はサンゴ礁の島で、田畑などは皆無であるが、人頭税はやはり米貢を強制された。これは蔵元政庁からの厳命で、上原と舟浦地方の荒蕪地を開拓して稲作に従事し、以て米貢の義務を果たしていた。命がけで海を渡ってくる鳩間人は、2、3日も田小屋に宿泊して男女協力して田植えをおえ、また夏の猛暑を冒かしては、稲粟の取り入れに海を渡って行って舟に満載して帰る」。
 「鳩間節」は、この舟で通い、収穫できた穀物を舟に積んで持ち帰る情景が歌われている。
♪前ぬ渡ゆ 見渡しば 行く舟来る舟面白ゑ
♪稲ば積んつぃけ面白ゑ 粟ば並みつぃけさてぃ見事
 歌意は次の通り
♪前方の海を見ると 新開拓地を往来する舟は 面白い眺めである
♪稲の穂を満載した舟 粟の穂を満載した舟は 見事な眺めだ
 かつてはこの曲を歌うとき、「西表島には水田で米を作るために通耕していたのに、なぜ粟も舟に積んで帰るのかな?」と疑問に思ったことだった。でも、通耕した西表島でも米だけでなく粟も作っていたとなれば、この曲の歌詞がよく理解できる。

 「小浜節」
 「果報ぬ島」といわれる小浜島は、水に恵まれていた。
 「利水条件は比較的良好である。台地、段丘がその地形的特徴をなし、しかも河川をもたない小さな島に利水の便があることは珍しい。島の水田は多くは天水田であり、水田は透水性が低く、地固めさえしておけば降水によってすぐに水は溜まる。また、深田も多く、耕運機などを持ち込めないところは水牛に頼ることも多い。 それに土壌に優れ、水も豊富でサトウキビを主に多くの米や農作物が栽培できる豊かな村落である」(『小浜島 竹富町史第3巻』)
 「小浜節」では、次のように歌われている。
♪大嵩に登てぃ 押し下し見りば 稲粟(イニアワ)ぬなをり 弥勒世果報(ミルクユガフ)
♪稲粟ぬ色や 二十歳頃女童 粒美らさあてぃどぅ 御初上ぎら
 歌意は次の通り。
♪大岳に登って 展望してみると 稲や粟は稔り 平和で豊かな世である
♪稲や粟の色は 二十歳の女性のように美しい 粒が美しく その初穂を神に捧げる
 水田のあった島らしく、島の大岳から見下ろすと、水田や畑に稲や粟が実り、豊作に恵まれた情景が目に浮かぶ。
 
 八重山民謡では、稲と粟が一対のものとして歌われている。といっても、稲にしても粟にしても人頭税の納税の過酷さに変わりはない。
 それに「米と粟が等価」であったとしても、結局はなにかと有利な稲作に重心が向けられ、米の上納を強いられた。そのため、危険をおかして舟で稲作のために他島に通い、泊まり込みで農作業をするという重労働が長年にわたって続けられた。さらには、水田のない島から西表島や石垣島のマラリア有病地に開拓のため強制移住させられ、幾多の犠牲を生んだという哀史があることを忘れてはいけないと思う。
 
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