レキオ島唄アッチャー

阿麻和利の墓を訪ねる

 阿麻和利の墓を訪ねる
 
 勝連半島に君臨し「肝高の阿麻和利(キムタカのアマワリ)」と呼ばれた人物のお墓が読谷村楚辺(ソベ)にある。ドライブに出かけたついでに立ち寄ってみた。 
                       IMG_0585.jpg

 古堅小学校の北側の住宅のそばにありわかりやすい。すぐ西側には、米軍基地トリイステーションが広がっている。
 木立の茂る大きな岩の下部が墓になっている。「阿摩和利之墓」の墓碑が建っている。
  なぜ読谷に墓があるのだろうか。 
                       IMG_0587.jpg

 阿麻和利は15世紀に北谷間切屋良村(現・嘉手納町)で生まれたという。
 当時、勝連城主で住民を苦しめていた茂知附按司を倒して按司(豪族)となった。第一尚氏王統の第6代国王・尚泰久の娘、百度踏揚(モモトフミアガリ)を妻としていた。中城城主の護佐丸に謀反の疑いがあるとして王の命令で攻め、自害させた。しかし、阿麻和利が首里城攻略の野望を抱いたとして、王府軍に攻め滅ぼされたとされる。
 王府によって阿麻和利は逆臣、護佐丸は忠臣とされてきた。
 しかし、一方で王府編纂の歌謡集「おもろさうし」では、勝連の阿麻和利は、国中にその名がとどろく気高い人物として歌われている。
                        katurenn.jpg

 護佐丸・阿麻和利の乱について、それが中城と勝連で勢力を増す両雄を滅ぼすため、尚泰久とその臣下・金丸(後の尚円王)による陰謀だったのではないか、という説も出ている。
 阿麻和利は、地元の中高生らによって現代版組踊「肝高の阿麻和利」が繰り返し上演され、いまではすっかり勝連の英雄とされている。
 護佐丸のお墓は、中城城跡の近くに立派なお墓がある。それに比べて阿麻和利は長らく逆臣とされてきたためか、墓碑がなければ英雄のお墓とはわからないほどだ。 
                    IMG_0586.jpg

 読谷といえば、伊良皆(イラミナ)には、琉球を統一した英雄、尚巴志(ショウハシ)の墓もある。こちらも、第二尚氏による追及を避けるため、首里から遠いこの読谷の小高い岩山がお墓になっている。
 阿麻和利も逆臣とされたため、やはりこの読谷で、ひっそりと葬られたのだろうか。いまや英雄とされているのだから、それにふさわしい案内板などあってもよいのではないだろうか。
スポンサーサイト

史跡 | コメント:0 | トラックバック:0 |
<<アルテで「うんじゅが情ど頼まりる」を歌う | ホーム | 宮古民謡「御船の主」をめぐって、その2>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |