レキオ島唄アッチャー

万次郎が琉球初上陸したのは伊平屋島、その3

 「ウランダー・マンジラー」の伝承がある久米島 
フランクリン号の捕鯨航海が終了し、フェアヘブンに戻った万次郎は帰国計画の実行を決意する。上陸用の小型ボート、航海用具(コンパス、六分儀)、図書類を購入し、サラボイド号に搭載し琉球に向かう。
 万次郎は1851年正月、琉球の摩文仁小渡浜海岸に上陸した。
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 薩摩「在琉使番上申書」で万次郎は「ここは親切なところと聞いているので、必ず役人がいるはずである」と言っている。筆者は次のように解釈したい。
 万次郎は欧米でベストセラーになった「ライラ号大琉球島航海記」を読んでいる。「ここは親切なところ」とのべているのは、ライラ号航海記の琉球の人々との親切な交流とブロートン航海記(英国を1794年、ブロビデンス号で出航し琉球にも立ち寄った)の引用部を前提にしていると思っている。
ま た、「必ず御役人がいるはず」と述べているのは、ライラ号航海記の「通事、役人」が小舟で艦を訪れた事例を前提にしている。さらに先にフランクリン号で上陸したマンピゴミレ(伊平屋島)と島名不詳(久米島)の島での島役人も頭にある。 
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                   万次郎が上陸した小渡浜
 波乱万丈のジョン万次郎を日本へ帰国させた心優しき琉球の人々と高安家の皆様を思い、筆者はグレート・ルーチューに生まれた事を誇りにしている。
 万次郎は偉大なる航海士であり、英語を普及させ、幾多の教育者に励みを与え、幕末と明治の若者達に希望を与えた。万次郎の生涯は歴史の偉大なる断面史である。
 要約は以上で終わる。
 
 當眞氏の「船乗りと海からの視点」と航海記の分析によって、長く疑問となっていた「マンピゴミレとはどこの島なのか」という謎が、解明された。
 ただし、その解明によって新たな謎も浮かんでいる。というのは、當眞氏ものべている通り、「マンピゴミレ」は伊平屋島であることは確かであるとしても、万次郎が上陸した際の状況と王府側の記録「球陽」の伊平屋島への異国船の来航と上陸の記述に相違があることである。上陸した人数や島で提供を受けた物資の種類などである。この違いを當眞氏は、久米島の伝承から、久米島にも上陸したと解釈している。
 「ウランダ・マンジラー」という万次郎を想起させる久米島の伝承は、とても興味深い。万次郎の名前を思わせる伝承があるのは、久米島だけではないだろうか。万次郎が上陸した可能性は確かにあるように思う。
 ただし、問題は万次郎側の資料には、琉球の二つの島に上陸したという記録がないことである。當眞氏が指摘するように、参考にしたと思われるバジル・ホールの海図に久米島の表記がないから書けなかったという理解もありうる。それでも、二つの島に上陸したことが事実なら、隠す必要はないので、二島に上陸したことを記録することが自然ではないだろうか。なお興味は尽きない。
 
 私的には、もう一つとても興味があったのは、万次郎が上陸地として琉球を選んだのは、琉球についてかなり的確な知識を持っていたからであるが、アメリカでそのような情報をどのようにして入手したのかということだった。
 當眞さんの研究で、バジル・ホールの航海記などを読んで情報を得ていたことを論証されたので、とても納得ができた。日本に帰ることを準備していた万次郎にとって、この航海記は重要な情報源となっただろう。
 また、「マンピミレ」島に上陸した目的は事前調査だったという指摘も、うなずける。「航海記」などから得た情報だけではなく、実際に上陸して自分の目と耳で確かめることが必要だと考えたのだろう。
 こうした情報と実際の上陸体験をもとに選択した琉球上陸が、その後の万次郎がたどった経過と結果からみて、とても正しい判断だったことがわかる。ここでも、万次郎の聡明さ、判断の的確さがうかがえる。そんなことを感じた次第である。
        終わり          文責・沢村昭洋
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