レキオ島唄アッチャー

万次郎が琉球初上陸したのは伊平屋島、その2

 中浜万次郎は、ホイットフィールド船長の友人、アイラ・デービス船長の誘いで捕鯨船フランクリン号に乗船する。職種は「スチュワード」で、この職を「給仕」と当てたのは語訳である。「船長補佐」又は「見習航海士」として乗船させたと思われる。
(フランクリン号で航海中、1847年4月末に琉球のマンピゴミレ島に上陸し牛2頭をもらったとされる)
 フランクリン号で訪れた「マンピゴミレ島」は、結論は伊平屋島である。
 「マンピゴミレ」についてこれまで異説まちまちである。バジル・ホールが図1に示す伊平屋島を含む近接5島をМontgomery列島と命名していることから、この列島の一つに該当するものと考えた。 
                      バジルホール艦長(外国人来琉記)
              バジル・ホール艦長(山口栄鉄編訳・解説『外国人来琉記』から)
 当時、琉球王府の記録で有名な史書「球陽」に様々な出来事が記載されている。尚泰王即位元年戊申(1848年)3月25日(旧暦)欄に次の記載がある。
 「伊平屋島野甫・島尻両村の西方洋面に夷船1隻の到来する有り。夷人28名、杉板(サンパン)4隻に分かれて浜に上陸した。牛、ヤギ、豚、鶏、ネギ、麦等を比勢(ゼスチャー)し、所望した。これを送給したところ、島人固辞するも遠見鏡と剃刀をもって儀礼と致し、浜に置いた。船形・風貌・阿蘭陀入船の図と似たり」(大意)となっている。
 ここで阿蘭陀人はオランダのことではなく、当時、西洋異国人を形容して「うらんだー」としていた。万次郎を含むフランクリン号28名の総員上陸であった。琉球も鎖国体制下の薩摩の一部として恐怖心を抱き、日本人・万次郎の身柄拘束、緩急あれば立ち向かう為の乗組員の支援体制と考える。

 さらに「球陽」には7日後、「4月初4日、久米島仲里郡儀間村の洋面に夷船1隻到来する有り。夷人7名杉板で上陸した。ヤギ、草料(野菜)を所望したのでこれを給す。船形、風貌、阿蘭陀入船の図に似たり」と記している。7名で交換の物品を出していないのが異なる点である。
 「球陽」をみると、久米島には頻繁に異国船が近づき食料を調達している。この記録はおとなしく、前後の記録にはかなり荒っぽい振まいが記述されている。上陸人数、調達数量、交換の物品等が合わず、上陸した小島は伊平屋島と久米島の2島あったと想定した。

  平成24年、沖縄ジョン万会の大城光盛会長は重要な史実を久米島で発掘した。島の古老達が「ウランダー・マンジラー」なる若者が上陸した伝承があると言う。「球陽」には上陸者の個人名は記述しないのが普通である。伝承として個人名が残った事実から、万次郎と島の人の間に何らの会話が成立し、特に王府か送られたら島役人は「土佐」という国名も承知していても不思議ではない。ヤギや野菜の調達はごく少量で島人の激励の「おみやげ」と考える。
 万次郎の目的な事前調査である。ライラ号の記述と同様に心暖かい人々であると確認したであろう。事前上陸が2島あった事が島名特定に各説まちまちの理由の一つと考える。さらにライラ号で作った海図には久米島がない。島名がないので言い様がないのである。(事前調査によって)万次郎の帰国上陸地点は「琉球」で決まりであろう。なお、「マンピコシン」の表記は毛筆写本の運筆上、「ミレ」を「シン」とする単純な転写ミスと考える。
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