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万次郎の琉球初上陸は伊平屋島、その1

 万次郎の琉球初上陸は伊平屋島

 中浜万次郎が10年ぶりにアメリカから帰国するにあたり、琉球に上陸する前に、一度捕鯨船フランクリン号で琉球付近を航行し、マンピゴミレという島を訪れたといわれるが、その島はどこなのか定説がなかった。この問題で、沖縄電力元会長で万次郎研究者の當眞嗣吉(とうまつぎよし)さんが、注目される研究成果を発表された。
 このブログでも、第4回ジョン万サミットin沖縄&第10回ジョン万次郎講演会の模様を伝える中で紹介した。この問題で、私も勝手な推測をブログに書いたが、當眞さんの研究は新しい視野でこの問題を解明したもので、重要な提起だと思うので、詳しく紹介しておきたい。
 當眞さんの論考は、高知県の郷土史研究の雑誌『土佐史談』の「中濱万次郎特集」で掲載されたものである。筆者は、小学生時代に一度「万次郎病」にかかったそうで、学生時代に若干の海上生活と造船所生活の体験があり、船乗りと海からの視点も加えて研究されている。 
                   IMG_9831.jpg
                        講演すr當眞氏
 當眞さんは、万次郎の帰国計画は相当に練られている、として、琉球王国の事情、民情、使用海図について「ライラ号大琉球島航海記」を著したバジル・ホール艦長の見た琉球像に求めたことを中心に見解を示している。島の名もこれまで「マンビコシン」と呼ばれていたが、當眞氏は毛筆写本の運筆上、「ミレ」を「シン」とする単純な転写ミスと考えている。
 以下その要約である。
 
 19世紀の初頭(1816年)、英国海軍の2隻の帆船が琉球・那覇港に来航した。両艦は渤海・黄海および朝鮮半島の測量を進めながら琉球に向かう。測量によって位置や形状を確定し、島々に英国風の名称をつけている。両艦は英国での航海日程の計画時に明確に琉球島と付属する島々の調査・測量を意図していた事が伺える。両艦それぞれの航海記が帰国後に直ちに出版されている。
 「ライラ号航海記」の著者は27歳の若き艦長のバジル・ホール海軍大佐である。同航海記は初版発刊後、ベストセラーとなり、米国フィラデルフィアでも発刊された。この航海では朝鮮西岸、琉球の多数の島々が西欧風に命名されている。 
                     マンビコミレ
              図1バジル・ホールの海図にある大琉球島
 航海記にはいくつかの海図が添付されている。同書の琉球島の海図(図1)には「マンピコミレ」(万次郎が上陸したとされる島名)と一字違いの「マントゴミレ(Мontgomery)」が出てくる。英訳「漂巽紀畧」(ひょうそんきりゃく、土佐藩の画家・河田小龍が万次郎の語る異国の話しに驚愕し書き上げた著作)の万次郎のルーチュー島(琉球)の海図を示す(図2)。島の形が良く似ている。拡大してバジル・ホールの海図と合わせてみるとピッタリ重なる。 
                     マンビコミレ (2)
                      図2 万次郎のリュウチュー図
 バジル・ホール海図の英文表題にも注目している。大琉球島はグレート・ルーチュー(GREAT LOOCHOO)の英文スペルである。万次郎は後にホイットフィールド船長宛の英文の手紙でルーチューという地名を2箇所で使っている。最初のスペルは(Great Loo Choo)である。万次郎はフェアヘブンでの勉学中にライラ号航海記を読んでいると思わざるをえない。
 アルセステ号は深刻な水漏れをおこして、両艦は那覇に停泊する。艦隊側の琉球側の印象は次の内容で代表される。
 英国水兵の傲慢な優越感は「琉球では、地上で最も平和的人々の温和な態度と親切な行為によって、完全に静まり柔げられた…日一日と友情と誠実が増して行った」

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