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ジョン万次郎講演会とサミット開く

 第4回ジョン万サミットin沖縄&第10回沖縄ジョン万次郎会講演会が9月12日、豊見城市中央公民館で開かれた。新聞、テレビでお知らせしたこともあり、会場いっぱいの参加者で関心の高さを示した。
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 歓迎アトラクションでフォレスト混声合唱団が「芭蕉布」などを披露した。団長は前夜祭でカチャーシーを演奏した高安勝利さんだった。「鼓衆しんか」は創作エイサーを勇壮に舞った。
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 講演会では、大城会長あいさつ(代読)、宜保豊見城市長の祝辞、万次郎直系、5代目の中浜京さん、土佐清水市の泥谷(ひじや)市長の来賓あいさつがあった。
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 京さんは、万次郎がアメリカ文化とデモクラシーをもって帰って来たことにふれ、「お互いに思いやる心があれば国家を超えた友情を持ち続けることができると思います」とのべた。
 
 講演は、高知県で発行されている『土佐史談』の中浜万次郎特集号に沖縄から執筆したお二人が演壇に立った。とっても聞きごたえのある充実した講演だった。
 糸満市教育委員会総務部長で万次郎研究者の神谷良昌氏は「ジョン万次郎・琉球上陸の真実」と題して話した。
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 神谷氏は、万次郎が捕鯨船に救助された当時の捕鯨の実態やアメリカでの留学と帰国の準備にも触れながら、琉球に上陸した万次郎をなぜ那覇に入れず豊見城間切翁長村に滞在させたのかを詳述した。当時、英宣教師ベッテルハイムが那覇に滞在してることは幕府に秘密にしており、彼と会せることが危険と考え、遠い翁長村に戻したこと。王府の通事で万次郎の取り調べにあたった牧志朝忠が『ジョージ・ワシントン伝記』を借りて読み、大統領制度と民主国家の仕組みを理解した。2年後に琉球に来たペリー提督が那覇に石炭貯蔵庫を作りたいと申し出た際、「海岸に貯蔵庫をつくることはできない」と「ノー」と断った。万次郎の教えのおかげだと指摘した。琉球人が米軍に歴史上最初に「ノー」と言い切った瞬間だったとのべた。

 沖縄電力元会長の當眞嗣吉(とうまつぎよし)さんは「『バジル・ホール館長の琉球』とジョン万次郎」と題して話した。有力企業の経営者がなぜ万次郎なのか。當眞さんは、小学生で万次郎に魅かれ、この数年前から「万次郎病」が再発して研究してきたという。
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 万次郎が琉球上陸する前に、捕鯨船フランクリン号で訪れた琉球のマンビゴミレとはどこの小島だったのかをテーマに解明した。19世紀初頭に琉球に来航した英国海軍のアルセステ号、ライラ号の航海記録と海図を分析して、琉球島の海図には「マンビコミレ」とは一字違いの「マントゴミレ」が出ていること。当時ベストセラーとなったライラ号の航海記を万次郎は読んでいると思われることなどから、マンビゴミレは伊平屋島であると結論づけた。ただ、琉球側の記録とは異なる面があり、久米島に「ウランダー・マンジラー」(ウランダーは外国人の総称)なる若者が上陸した伝承があり、上陸した小島は伊平屋島と久米島の2島と想定した。上陸目的は事前調査であり、心暖かい人々であると確認したであろう。万次郎は、ライラ号など航海記を読み、マンビコミレ、久米島にも上陸してみて、「琉球に上陸して大丈夫だと考えて上陸したに違いない」とのべた。 
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 このあと第4回ジョン万サミットin沖縄で土佐ジョン万会をはじめ各地で活動する団体から活動報告。その後大交流会があったようだが、残念ながら別の用務と重なり参加できなかった。
 
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