レキオ島唄アッチャー

沖縄i戦の戦跡を訪ねて、潮平権現壕

 約560人の命を救った潮平権現壕
  糸満市潮平の長谷寺のすぐ近くに、潮平権現壕と呼ばれる戦跡がある。地図では分かりにくいと思ったが、なんとか付近までいくと、案内板が建っていた。この案内板は、長谷寺の 岡田住職が、住民の同意をえて建てたという。これがあってとても分かりやすかった。
 付近はサトウキビ畑が広がっていた。
 100mほど歩くと、見えてきた。この壕は、全長240mほどある自然の壕だ。
 入口には、鳥居がたっている。この奥のガジュマルの下が壕である。また、崩落の危険があるので、壕への立ち入りは禁止しているとの看板もある。見ると、鎖で閉ざされている。
                       潮平権現
 入口は小さい。ここに600人近い住民が避難したとは、入ると奥が長いのだろう。潮平権現の碑が建っている。裏側は碑の由来が記されている。
 潮平でも、米軍の艦砲射撃や飛行機からの銃爆撃が「雷雨の如し」状態で、字民約560人は自然壕に退避した。1945年3月23日のこと。壕にいること約3カ月、同年5月5日(旧暦)に全字民1人の死傷者もなく米軍に救護されたという。「壕の庇護に感謝し、旧5月5日を記念日と定め、潮平権現の碑を建て、子々孫々に之を伝う」と記されている。毎年権現祭を催している。
                  067[1]


 壕は2か所あり、手前に少し小さい壕がある。写真では分かりにくいが、二つの壕はともに、入口のところに屋根のようなものがついている。潮平権現として碑を建てた時に、壕に屋根をつけたのだろうか? 他の壕ではあまり見ない不思議な屋根である。
 それにしても、壕が全長240mあるとはいえ、600人近くが避難したとは、信じられないほどだ。それも、凄惨な戦場となった糸満市で、ここでは1人も死傷せず、全員助けられたことは、奇跡的である。まあ、だから住民は、感謝の念から、潮平権現として、お祭りまで催しているのだろう。

 この壕のことは、数年前に、沖縄大学に聴講に通っていた時、金城正篤先生からお話を伺ったことがあった。だから一度訪ねてみたいと思っていた。
 先生の話では、3月に住民が避難していたのに、日本軍により追い出された。でもその後、日本軍は確か記憶では移動したので、住民はもう一度壕に戻り、避難を続けたため、助かったということだった。追い出されたまま、さまよわなければいけなかったら、どれほどの犠牲者が出たかわからない。南部の壕は、一つ一つに壕に、それぞれ、生死をかけたドラマがある。同じものは一つとしてない。  
                    潮平権現壕 
金城正篤さんは、この壕で生き残った体験者の一人である。2008年6月13日の権現祭で、新聞インタビュに応えた体験談が掲載されている。
 「壕では濁った水を飲んだりして大変だった。今入ると、よくこんな所で我慢していれたなと身の毛がよだつ。今の平和を大事にしたい」(「琉球新報」)
 潮平権現の碑は、壕のすぐ前に建っている。1953年10月に建てられたというから、終戦8年目である。
 約560人もの住民全員が助かったのは、なんといっても、壕の中に日本軍が一緒にいなかったことが大きい。いればいろんな悲劇が起きたことは確かである。それに、みんな同じ地域で暮らす字民だったので、お互いに支え合っただろう。これまで、たくさん壕も見てきたが、一人も死傷者を出さずに助かったと聞くと、なにかとても救われる思いがする。
                     
 最近は、とても壕の見学にくる人が増えているようだ。一度は見ておきたい壕である。「命どぅ宝」の思いを新たにする。
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