レキオ島唄アッチャー

粟国島のヤガン折目、その5

 ツヤの由来譚
 紹介した4つの由来譚の他にも由来譚がある。「ツヤの由来譚」(安里盛昭著『粟国島の祭祀―ヤガン折目を中心に』から)のあらましを紹介する。
 浜部落に夫な番所に勤め、妻のつやは美人だった。出張して来た役人が夫を魚釣りに誘い、海に突き落とし殺した。役人は言葉巧みに話し、つやを誘った。つやは野嶽(ヤガン)に誘い、用意した酒肴をすすめ、酔って抱き付いてきた役人の睾丸を切り死なせて野嶽に葬った。
役人は死後、あら神と言われた(粟国村誌)。

 ツヤの由来譚の検証
 ツヤの夫は番所勤めである。そして役人は番所への出張役人である。そこから時代考証をすると1611年浜村に番所がおかれた後である。
祭政一致の置かれた尚真王代、中央集権の政治体制が完了した。そして按司掟をして各間切の地頭職を監督統制させた。1611年(尚寧王23年/慶長16年)按司掟を廃止し、前間切を七代官制にして地頭代職をおいた。粟国は久米島代官の管轄で初めて浜部落泊(現在はこの字はない。今の浜川氏宅地)に番所を設置した。そして初代地頭代職を置いた。
 現在の形のヤガン折目は祭政一致の祭の形ができて、番所役人が祭りに参加して祭りの場がそれに応じた作りになっているので、番所のできた1611年から1713年のあいだということになる。ヤガン折目の由来譚は官の筋書きに手を加えた感もあるが、…
                      ヤマトゥガー(粟国村観光協会)
         ヤマトゥガー(粟国村観光協会HPから、文章とは関係ない)
  『琉球国由来記』によると、ヤガン折目は「由来ㇾ不伝」ということである。1713年編集された時点ではこの由来譚もなかったということである。…祭りそのものは由来記が編集されるまえより、依然続いてきたものと思われる。
 2月の折目から6月の忌み明けの折目、稲大祭として、王城の公事の祭りとしてあり、聞得大君の統制のもと各地域に公儀ノロが置かれ、王城の公事にならって6月折目として粟大祭が盛大に行なわれてきたと思われるが、それにかわってつくられたヤガン折目は公儀主導の祭りであるが、元々あった祭りを6月の粟大祭に代わって作ったため「由来ㇾ不伝」と言わざると得なかった。
 そしてその後の畏怖の念の強いカシチー、シバサシ、ヨーカビーなどに影響されたと思える由来譚、怖い事象をおさめる。鎮魂の儀礼ができあがったと思える。王城としては地人(村人)を誘導統制するには都合がよかったのである。
 <高坂薫さんが18世紀の初めの『球陽』の出ているという「粟国に不幸が訪れて、子が流産したり、妖光が輝いたり、バタバタと人が死んだりというような話が3つも出ています」(『沖縄祭祀の研究』「神歌と村落構造」)と指摘し、これが祖霊神の儀礼を鎮魂祭に変えていくような要素を持っていたのではないか、といっておられる。…やはり由来譚としての鎮魂の話はあとからつくられたものといえる。>
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