レキオ島唄アッチャー

粟国島のヤガン折目、その4「由来譚」

由来譚第2説
ヤガン折目の由来譚の続きである。
 大昔の事、ヤガンのムラガマの外れに、漂流の遭難船から上がって長年住んでいた人が、死後は弔う人もなく時が過ぎた。
 いつの頃からか、磯で釣った魚が家に帰って見ると目玉がなかった。暫くして四辺の畑仕事に行くと、人の目玉を抜取ったり、鼻を削ったり、妊婦に流産させたり、いろいろと不思議な事が起こった。
 島人はそこで今帰仁城に訴えた。そこで使者ナチジンは、来てみてそれが事実であることを報告した。対策にシューバーイを7バーイ(干魚)と、粟穀7石をもって渡島した。ミチャミチをつくりバーイを上げ、チジン鉦打っても中々出ないので、騙したり賺(スカ)したりしてやっとエーガー城の上に、次にタカチヂまでは見えた。
 併し、居付かずにとうとう今のエーヌ殿のイビカナシの所に鎮まった。使者はナチジンウカミとしてエーヌ殿の中に祀ったとの事である(『粟国村誌』)。

 由来譚第3説
 昔、粟国島は毎年6月頃になると、人の目や鼻を取ったり、流産させたりする恐ろしい神様がいた。困りきった住民が今帰仁城に訴え出たところ、平敷の大主という役人が派遣されてきた。島に来た大主はこのことが本当であることを知り王に報告した。王は、彼にこの神を鎮めるよう命じてきた。それで大主はバーイ(塩づけの魚)を7バーイ、粟を1石、米、鼓、鉦を王に要求し、それらを持って再び粟国島へやってきた。そして、粟、花米で酒やごちそうを作ってヤガンガマの前に持っていき、鉦、鼓を鳴らして神をおびきだした。この神は、ヤガンガマを出て、ガタヌク御嶽、チヂ、イビガナシへ行き、グスクマ屋あたりで見えなくなった。その後は、この神が暴れることもなくなったので、住民は、あの時の様子を再現してヤガンウユミの祭をやるのである。荒神を鎮めてくれた平敷大主は、平敷島に帰った。彼への感謝の気持ちの現れとして、今帰仁城を拝む拝所がイビガナシにある(『沖縄民俗』15号 琉球大学民俗研究クラブ、『粟国村誌』) 
                       ヤガンウユミ、山ノ神迎え
                           ヤガン折目山ノ神迎え(粟国村HPから)

 感想を述べる。以上3つの由来譚は、いずれも人の目玉を取ったり、鼻を削ったり、流産させたりする恐ろしい神を鎮めるため、供物を奉げて御願をするようになったことでは共通している。とても興味深いのは、第1説は中山王府に訴え出たのに対して、第2,3説は今帰仁城に訴えたことである。
 粟国島には行ったこともない者にとって、粟国は久米島に近いという感覚や那覇泊港から船が出ていることもあり、首里王府との関係しか思い浮かばなかった。でも、この由来譚を読むと、首里王府以上に今帰仁城との関係が強い。地図を見ると、距離的には粟国島から那覇まで60㌖余り、北部の本部半島も60数㌖とあまり違わない。方角からいえば、那覇からは北西にあたるが、今帰仁からだと真西の方角になる。琉球の三山時代、今帰仁城を本拠とした北山は、明国に朝貢し中国皇帝から国王として認証を受ける冊封関係にあった。今帰仁から明に行くのには、伊江島から粟国島、久米島を見て東シナ海を越えて行ったのだろう。古くから今帰仁と粟国島との深いつながりがあったこともうなづける。

 由来譚第4説
 海に出た漁師が、波に漂う不思議なものを拾ったので、中山の御主加那志前に差上げた。見ると粟の穂だったので、それを探しに今一人をつけてやった。確かに遠くに島影を見たが近づくと島は消えてなかった。そこで北山の子(思満金)が中山の指令を受けていくとそこは粟国島だった。島には住居が5、7軒あってウフヤディーを中心に暮らしていた。その時耕作にいった女3人が、スバキン原の坂の処で1人は片目、1人は両目を潰され、他は児をおろすという騒ぎがあった。中山に報告が行き仕様を聞かれて、粟ナーカ俵(ダーラ)とシューバーイを持って再び渡島。その折に中山の長男、二男、ウミナイビ(長女で13、4才)  が加勢に北山の三男を中心に行き、例の供物を持って、ヤガン原の辺りクサクチの上にフーウッカーギ(テント)を張り、粟ミチ、バーイなどを供えて拝んだ。すると神は腰を浮かしてのり出してきてテラの上に退いた。なお供物を上げると先程クサクチの上の頂上(チヂ)で鐘の音が聞こえた。アマギドゥでもヒタヌチヂでも供物を供えた。又同じ東リイザニの上にも供えたが、外廻りしてイヒョーラからエージ城のアタカヌクシで一服してからイキントゥの中のタカチヂ即ちタレーラムイで拝まれた。次第に居付いて最後は今のウフナカ即ちエ-ヌ殿に鎮まった。
 中山の2人兄弟は沖縄へ帰ったが、その子孫はクンザン屋、ニーブ屋となって残り、 中山の長女と北山の三男が結ばれてアガルマントウン小又吉の先祖となった。後世はその労多しとしてナチヂンウユーといって、八重大仲の祠に祀った(『粟国村誌』)。 
                       ヤガンウユミ、ナーマチ(火の神まつり)
                       ヤガン折目火の神まつり(粟国村HPから)

 第4説の検証
 この第4説で一番興味を引くのは、村の島立てとヤガン祭りに関わる家筋の走りがみえることである。いままでの2説においてヤガン折目と今帰仁、中山の王権のかかわりがみえ、また聞得大君の組織化のものとして捉えられていたが、ここではその以前の祭りと家筋の関わりがみえてくる。
<「庇護される宗家」から
 由来譚第4説から首里、今帰仁の宗家としてアガルマ一門、国頭屋(くんじゃんやー)、ニーブヤー、ができる前に大屋殿(うふやでー)という血縁集団を中心に暮らしていたということである。
 つまり古琉球の時代に大屋殿を中心とした今帰仁、中山(注・首里王府)に政治を託す村が存在したということである。そして大屋殿を中心とした祭りの形態があったと思われる。>

 まず島の発見が語られる
 粟の穂が漂流していたのでそれを拾って王に差し上げたら、一人共の者をつけてやってその漂流先を探しに行ったら島影を発見したが見えなくなったので、今度は北山の子が捜しに行って島を発見した。そこは粟国島だった。
 そこには住居が5・6軒あってウフヤデーを中心に暮らしていた。その時ウフヤデーが血縁集団のマキの祖、根屋であったということである。
 もしこの血縁集団がトゥマイナ周辺に一族を作り五穀豊穣を願い、一族の安寧を願って暮らしている時、事件が起こり北山、中山に助けを求めたということで、両方からその事件を解決に掛け参じたということを物語っている。
 北山から思満金、中山から長男、次男、ウミナイビ(女)が加勢、そして事件は解決して中山の長男、次男の子孫としてクンザンヤー、ニーブヤーができたという。つまり祭りが根屋のできた頃からあったということになり、番所がおかれ、公儀ノロが配置され以前からあったことになる。
 子孫を残して中山の2人は帰ったということである。妹の方は北山の三男と結ばれてアガルマントゥングヮー大屋の又吉の先祖となったということである。

 ここで注目したいのは血筋である。粟国の門中がグーシーの遥拝で首里、那覇あるいは今帰仁を遥拝、先祖として崇めるのもこれから頷けるようである。あくまで中央志向である。グーシーの項でも検証した通りである。
 中山と今帰仁を後ろ立てにした3つの由緒正しい血筋が村を統治し祭りを仕切っていく構図がみえる。たかが由来譚と思えぬものがそこにあるようである。
 そして各血縁集団がヤガン御嶽を中心に先祖神を祀り、御嶽を中心に根屋、国頭屋、ントゥングヮー大屋と下に広がる村立ての構図、仲松説が見えてくるように思う。
スポンサーサイト

沖縄の祭祀 | コメント:0 | トラックバック:0 |
<<古蔵青年会が旧盆エイサー | ホーム | 三線とピアノの夕べに魅了される>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |