レキオ島唄アッチャー

粟国島のヤガン折目、その1

 粟国島最大の祭祀、ヤガン折目

 伊江島の祭祀「大折目(ウプウィミ)」について紹介した。そのなかで、粟国島にも「ヤガン折目(ウユミ)」という祭祀があることにふれた。県立図書館で安里盛昭著『粟国島の祭祀―ヤガン折目を中心に』『粟国村誌』などを借りて読んだ。
  粟国島には、また行ったことがない。映画「ナビィの恋」が撮影された島で知られる。那覇の北西60㌖に位置する半円形状の島だ。見方によっては、ハート型にも見える。
 島は南西、西側は高さ90㍍の絶壁となり、そこから東北に向けて緩やかな段丘をつくり、東部は平地となって東海岸は砂丘に囲まれている。珍しい形状の島である。人口は800人余りであまり観光化が進んでいない。今も行事の多くが旧暦で行われ、なかでも大晦日の晩から元日に三線と踊りで地域内の各家々を練り歩き無病息災と五穀豊穣を願う「マースヤー」行事は、テレビでも紹介されたので知っていた。
 「ヤガン折目(ウユミ)」は、島最大の神行事である。同書を読むととても興味深い内容があるので、その一部だけでも紹介したい。 
                    粟国島(粟国村観光協会
                   粟国島(粟国村観光協会HPから)
 折目(ウユミ)とは何か。2
 折目といっても、あまりなじみのない方もいるだろう。折目とは何か。
「年中行事のなかで、生産休養日の“遊び”をともなう収穫祭や予祝行事の日。沖縄ではウイミまたは節目(シチビ)、奄美ではオンメ、宮古・八重山ではキジャリと呼ぶ。なお生産年の交替を祝う大折目を沖縄県本部半島地域ではウフユミという」
『沖縄大百科事典』は、このように解説している。

  粟国島の野厳折目(ヤガンウユミ)の由来について、まずは「広報あぐに」2011年9月号)から紹介する。
 その昔、島の北側の野厳原(ヤガンバル)で毎年6月(旧暦)になるとそこに居る荒ぶれた神様に畑の作業にきた人々が目玉をえぐられたり、鼻をそがれたり妊婦は流産させられたりしたそうです。
 困った島の人々は、沖縄本島北部の今帰仁城の王様に何とか治めて下さいとお願いに行きました。王は家来の平敷大主(ヘシキウフシュ)にこの荒ぶれた神を治めるように命じました。
 平敷大主はバーイ(千魚)、粟や酒(ミチ・そてつの実を発酵させたお酒)を準備させ島のノロ(神人)達といっしょにその荒ぶれた神を野厳原から拝所のイビガナシーまで誘い出し、用意したバーイやお酒でもてなしました。その後この荒ぶれた神も島の人々に悪さをしなくなったそうです。それで、毎年旧暦の6月24 日、25日、26 日は神を鎮める祭り「ヤガンウユミ」が行われてきました。古来は神を鎮める祭りでしたが、現代は、島の繁栄と人々の健康祈願が主のようです。ヤガンウユミ説は数説ありますがその一説を紹介しました。 

 「ヤガン折目」の祭祀を知るために、その背景として粟国島の歴史的な事情を安里盛昭著『粟国島の祭祀―ヤガン折目を中心に』からごく簡略にスケッチする。
 (琉球は13世紀から14世紀はじめまで北山、中山、南山の3小国に分かれていた)
三山を統一した尚巴志の代の世の主の代になると、祭祀も按司一族の神がその間切(マギリ、いまの町村)内の有力な神としてあがめられ、この神に仕えるノロ(神女)といわれる祭祀を司る者が一族から出現してくる。この人たちは按司を賛美した歌謡を唱えることが多くなる。
 第二尚氏の3代目尚真王は諸按司(豪族)を首里に集め、中央集権の政治を行なった。地方には按司掟(アジウッチ)をおいて行政監督をさせるようになる。
 祭祀においては聞得大君(キコエオオキミ)を最高位につけ国王の姉妹を姉妹神(オナリ神)として王妃の上位に君臨させ、地方には公儀ノロを送り、各村々の祭祀までにも采配を振るった。聞得大君の下に三平等(ミフィラ)のノロ(略)がおかれ、その下に大阿母(オオアモ、名門出身のノロから与えられる称号)をおいた。
 粟国島は久米島代官の管轄にあり、番所が置かれ役人が島を統轄するまで久米島の大阿母の下で公儀ノロの司る祭りが行われたものと思われる。 
                        粟国島の岩
                粟国島の断崖(粟国村観光協会HPから)

 近世 1609年の島津侵攻2年後の1611年、番所が(粟国島の)浜に設置され、初代地頭代が任命された。
 1725年 往古から慶良間と粟国の地頭は兼任していたが、この年、在番を別々において、それぞれの島を監守させ、それと外国船の漂来や地方の船隻の行き来を監視させた。
 
 首里王府時代、久米島代官の下にあった粟国は、聞得大君の直接のつながりがあった久米島君南風(チンペー、大アムシラレ)の下で強い宗教統制下におかれたものと推測される。しかし、時代とともに次第に神女組織は簡素化されていった。

 戦後、粟国村の復興のためには村民の団結が必要であった。当時の村長仲里秀雄氏は祭りを通して団結心を奮起させるため、明治、大正までつづいた「ヤガン折目」の復活を企て、当時役所に勤めていた浦崎春男氏がこの祭りを覚えていたユナンサー屋の娘(当時80歳代)から聞き書
きをして、ヤガン折目を復活させた。
 
 「ヤガン折目」は、粟国島の民俗・文化を知る上でとても重要な祭祀である。粟国島が沖縄本島の政治勢力によってどのような支配を受けてきたのか、その歴史的な事情は、この祭祀の姿にも大きなかかわりがあるものと見られる。
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